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加賀国 金沢城 [ KANAZAWA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナカナザワジョウ
別称金沢御坊・尾山城・尾山御坊
スタンプ設置場所二の丸案内所 08:00-17:00
石川門入口案内所 08:00-17:00
曲輪配置梯郭式
城郭種類平山城
築城者佐久間盛政
築城年1580年
廃城年1871年
主な城主佐久間氏、前田氏
指定史跡国指定
標高58.8 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物石川門、三十間長屋、鶴丸倉庫
復元建造物菱櫓、橋爪門、橋爪門続櫓、五十間長屋、河北門、橋爪門二の門、枡形二重塀、鼠多門、鼠多門橋
遺構石垣、土塁、水堀、空堀
現状金沢城公園
駐車場石川県兼六駐車場(有料)
最寄り駅JR 金沢駅


概要・現地案内板

天文15年(1546)金沢御堂がこの地に置かれ、加賀の一向一揆を指導したが、天正8年(1580)に佐久間盛政が加賀北部を支配し、金沢城の造営をはじめた。
その後、天正11年(1583)前田利家が金沢城主となり、本格的な近世城郭へと姿を整えていきました。
天正14年頃の天守創建、文禄元年(1592)の高石垣建設、元和7年(1621)の本丸拡張などを経て、寛永の大火後(1631年以降)現在の金沢城に近い姿になりました。
現在天守はありませんが、慶長7年(1602)に落雷によって焼失するまで、本丸に聳えていました。
焼失後、天守の代わりに三階櫓が建てられ、宝暦9年(1759)の火災まで城のシンボルとなっていました。
二の丸には寛永の大火後、二の丸御殿が作られ、藩主の御殿、藩庁として藩政の中心にありました。
三の丸には河北門・石川門・時鐘・鉄砲所、新丸には作事所・越後屋敷・会所・割場などの施設がありました。
明治4年(1871)廃藩置県で明治政府の所轄となって旧陸軍の拠点となり、昭和24年(1949)からは金沢大学のキャンパスになりました。
その後、大学の移転により、平成8年(1996)から石川県が金沢城公園として整備しました。
※現地案内板(金沢城の歴史)より


城犬のおいど 攻城記録


石川門


三の丸東端に位置し、石川郡に向いていることから石川門と呼ばれた。石川櫓は門の出入りと小立野方向を見渡す櫓でもあった。屋根は鉛瓦を葺いてある。国指定重要文化財である。
※現地看板より

この石垣は、右と左で積み方が違います。右側は「切石積み」、左側は「粗加工石積み」となっています。同じ場所で違う積み方をした珍しい例で、明和2年(1765)の改修時のものと考えられています。文化年間に書かれた文書には「左右違い分けて積むのはおかしい」などと記されており、石垣の積み方にもいろいろなこだわりや思いがあったことがうかがえます。
※現地説明板より

三の丸


橋爪門と五十間長屋


鶴丸倉庫


嘉永元年(1848)に建てられた武具土蔵で、石川門、三十間長屋とともに城内に残る藩政期の数少ない建物のひとつ。全国の城郭内土蔵の中でも最大であり、腰の石貼りや窓回りなど意匠的にも優れた遺構として、平成20年(2008)に国の重要文化財に指定された。明治以降、軍隊の被覆倉庫などとして利用、修理されているが、基本構造は創建時のままである。
※現地看板より

丑寅櫓跡


本丸の東北角、丑寅の方角に当たることから「丑寅櫓」と呼ばれていた。櫓を支える野面積みの石垣は、文禄元年(1592)の築造と推定され、金沢城内最古の石垣である。宝暦の大火(1759)後は再建されなかった。
※現地看板より

東の丸


辰巳櫓跡


本丸の東南角、辰巳の方角に当ることから「辰巳櫓」と呼ばれていた。長屋を備えた立派な櫓が建っていたが、宝暦の大火(1759)後は再建されなかった。櫓を支えた石垣は明治の石垣改修により改変され、ほとんど残っていない。
※現地看板より

本丸


古くは金沢御堂があった場所と伝え、天正11年(1583)の賤ケ岳合戦後、前田利家が入城し、天正14年(1586)頃に天守を設けたといわれる。天守は慶長7年(1602)に焼失し、代わって三階櫓が建てられた。寛永の大火(1631)までは本丸に御殿がおかれ、金沢城の中心であったが、大火後は二の丸に移った。
※現地看板より

戌亥櫓跡


本丸の北西角、戌亥の方角に当たることから「戌亥櫓」と呼ばれていた。西と北に「出し」という出窓がついている二層の櫓だった。宝暦の大火(1759)の後、再建されなかった。
※現地看板より

鉄門跡


創建は明らかではないが、寛永の大火(1631)以降、二の丸から本丸に入る正門となった。鉄板を貼った扉がつけられていたことからこの名前が付いたといわれている。渡し櫓が乗った重厚な門で、本丸の防御にあたっていた。
※現地看板より

三十間長屋


宝暦の大火(1759)の後、長く再建されず、安政5年(1858)に再建された長屋。本来は食器類を納めた倉庫であったが、江戸時代後期には武器・弾薬を納めたといわれている。昭和32年(1957)国の重要文化財に指定された。
※現地看板より

極楽橋


二の丸と本丸附段の間の空堀に架かる極楽橋の名前は、江戸時代から使われており、金沢御堂に由来すると伝えられる。
※現地看板より

金沢御堂


天文15年(1546)、加賀一向一揆の中核である石川群衆は、金沢に坊舎を建立しました。坊舎には大坂本願寺から届けられた木仏本尊や影像掛軸、仏具が安置され、御堂衆が派遣されて仏事を勤める本願寺に直属する寺院でした。当時の史料には「加州金沢坊舎」、「加州御坊」などと記されています。やがて御山と呼ばれるようになりました。

その後、金沢御堂は経済・軍事の拠点を兼ね備えた一揆衆の中枢施設となりましたが、本願寺と織田信長の対立が激しさを増す中、天正8年(1580)に織田方の武将柴田勝家の軍勢に攻められ、陥落しました。当時の御堂の詳細はわかっていませんが、堀割りや土塁を構えた城郭寺院で、金沢城地の一画を占めていたと推察されます。
※現地看板より

二の丸


初期の金沢城は本丸を中心とした城作りが行われていたが、寛永8年(1631)の大火を機に中心は二ノ丸に移った。敷地を拡張した大規模な御殿が作られ、以降、藩主の住まいや政務の場として金沢城の中枢を占めた。

約2ヘクタールを超える敷地に建てられた二ノ丸御殿は、藩主の交代による改修や火災による焼失など幾度となく姿を変えながらも幕末・維新期まで御殿としての機能を持ち続けていた。その後、陸軍の兵舎として利用されたが、明治14年(1881)の失火により惜しくも全焼した。現在金沢城内に二ノ丸の名残は見られないが、御殿の正面玄関脇にあった唐門は城外に移築され、現在は尾山神社の東神門(国登録有形文化財建造物)となっている。
※現地説明板より

色紙短冊積石垣


色紙(方形)や短冊(縦長方形)状の石やV字形の石樋が組み込まれた、金沢城内で最も意匠的な石垣です。石垣の下部を約2m埋め戻したため、現在見ることはできませんが、発掘調査では滝壺の石組みが発見され、V字形の石樋から落水する落差9mに及ぶ石垣の滝だったことが判明しています。
※現地看板より

玉泉院庭園


2代藩主前田利長の正室玉泉院がこの場所に屋敷を構えたことから、玉泉院丸と呼ばれるようになりました。3代目藩主前田利常が、寛永11年(1634)に京都から庭師を招いて庭園を造営したことに始まり、5代綱紀、13代斉泰の時代に改修された記録が残されています。

庭園は、明治期に廃絶されていましたが、平成20年から24年までの5年間の発掘調査や、江戸時代末期の詳細な絵図等をもとに、確認された遺構の上に約2mの盛土をして庭園を再現しています。大きな池に大小3つの中島を浮かべ、周囲を園路で結ぶ、典型的な池泉回遊式庭園です。石垣を庭園の構成要素として取り入れ、また、発掘調査で確認された池底の遺構から石垣の最上部までの高低差が約22mもある、立体感に富む庭園であることが大きな特徴です。整備工事は平成25年5月に着工、平成27年3月に完成しました。
※現地看板より

番所跡


鼠多門


鼠多門は金沢城の西側に位置し、鼠多門橋により接続される金谷出丸(現在の尾山神社境内)からの出入口として機能していた。石垣の間に設けられた大扉の上に櫓が作られる、櫓門形式の城門である。屋根は鉛瓦葺き、腰壁には海鼠壁が用いられているが、海鼠壁の目地が黒漆喰で仕上げられることが、城内の他の門には見られない特徴である。

明治17年(1884)に火災により焼失した。
※現地看板より

鼠多門の外壁には、貼り付けた瓦の目地を漆喰で盛り上げ、なまこの形に塗る「海鼠壁」が用いられていた。調査では、壁からはがれ落ちたと考えられる「黒漆喰仕上げの海鼠漆喰」の破片が出土した。現存する城郭建築では全国的にも例がなく、たいへん貴重な発見となった。
※現地看板より

「鼠多門」の創建時の記録は確認されていないが、明治24年(1891)に金沢の歴史家、森田平次が編纂した「金澤古蹟志」では、多門櫓(長屋状の櫓)を渡した門で、壁の色が鼠色だったため「鼠多門」と呼ばれたのだろうと推察している。
※現地看板より

鼠多門橋


鼠多門橋は、玉泉院丸と金谷出丸(現在の尾山神社境内)を結ぶ金沢城最大規模の木橋であった。江戸時代前期には存在していたことが絵図により確認できる。発掘調査では異なる年代の橋脚痕跡が確認され、幾度かの架け替えがあったことが明らかになった。

明治10年(1877)に老朽化により撤去され橋の面影は失われていたが、令和2年(2020)7月に、往時と同じ位置に整備された。
※現地説明板より

金谷出丸跡


金谷出丸は城の西側に張り出した出丸で、現在の尾山神社の敷地にあたる。いもり堀を挟んで玉泉院丸と接し、鼠多門橋を渡り行き来していた。江戸中期以降、隠居した藩主一族が居住する金谷御殿が建てられた。
※現地説明板より

玉泉院丸鼠多門続櫓台石垣


玉泉院丸の北西隅に位置する櫓台石垣で、絵図では堀底から高さ5間3尺5寸(約10m)と記されています。文化7年(1810)の修築を担当した石垣技術者の後藤小十郎による指図が残っており、石垣勾配の設計法を知ることができる石垣です。比較的丸みのある石を多用することから「鶴目積」の石垣とも呼ばれました。
※現地説明板より

数寄屋敷西方の堀縁石垣


甚右衛門坂


甚右衛門坂下の伴天連屋敷跡


金沢城西側と城下をつなぐ坂の下周辺には伴天連屋敷(宣教師の屋敷)が集まっていたと伝わる。丹波国守護代内藤家出身の内藤如安や宇喜多秀家に仕えていた浮田休閑など、右近を頼って金沢に来たキリシタン武将や加賀藩士が集まっていたのであろう。慶長19年(1614)のキリシタン禁教令によって、如安は右近と共にマニラへ、休閑は津軽へ流され、その地で人生を終えたとされている。
※現地看板より

尾崎神社


当神社は天照大神、東照大権現(徳川家康)、第三代加賀藩主前田利常を祀る。寛永20年(1643)、東照大権現を祀ることを許された四代藩主光高が、金沢城北の丸に東照三所大権現社として建立。徳川家葵の紋がところどころにちりばめられた十数棟に及ぶ社殿を誇った神域は、「金沢城の江戸」「北陸の日光」と呼ばれ崇められた。明治7年(1874)、尾崎神社と改称。明治11年(1878)、金沢城内に駐留した陸軍省の都合により現在地に移築され、昭和25年に、本殿、拝殿及び幣殿、中門、透塀等が重要文化財に指定された。
※現地説明板より

加賀藩御算用場跡地


加賀藩における財務を司る機関を御算要場といい、創立時の新堂形の地から、金谷門外を経て、寛文12年(1672)よりこの地に置かれた。御算用場では算用場奉公以下、算用者と呼ばれる実務を担当する役人が約150名勤務していた。算用者には職務上、筆算の才能が必要とされた。
※現地看板より

大手堀


大手堀の石垣


堀際にある粗割り石を積み上げた石垣は、金沢城初期(慶長)の石垣です。この頃、尾坂から河北坂を経由して本丸へ至る大手筋の要所が石垣で固められました。上段の石垣は尾坂門台の石垣で、大きな石を組み込む手法に特徴があります。寛政11年(1799)の地震で崩れ、翌年修築されました。
※現地説明板より

大手門口


大手門(尾坂門)石垣


高山右近の指導により、西丁口(現在の黒門口)にあった大手を尾坂口に移したと伝える。大きな櫓台石垣が残っているが、櫓や長屋が記載された資料はなく、屋根付きの門(棟門)が設けられていた。
※現地看板より

巨大な割石を使った石垣です。巨石は「鏡石」と呼ばれ、一般には城の正面によく用いられました。金沢城の石垣の中で最大の石もこのなかに組み込まれています。尾坂門が大手門だったことを示す一つの証拠と見られています。
※現地説明板より

新丸


二代藩主前田利長が跡を継いで間もない慶長4年(1599)頃に、新たに拡張された郭が新丸であるといわれる。新丸の東側は越後屋敷と呼ばれ、もともとは剣術の達人で重臣であった富田越後守重政の邸宅があったことが名前の由来となっている。

江戸中期以降、参勤交代で江戸に滞在する藩主に代って重臣達が政務を行う場として利用されるようになった。西側には城内の建築工事などを司る作事所や、登城した藩士たちの食事を用意する下台所などの役所があり、いわば、新丸は城内の官庁街ともいうべき郭であった。新丸の西側には南北に伸びる水堀があり大手堀へと繋がっていたが、現在は埋立られている。
※現地説明板より

河北門


金沢城三の丸の正門です。橋爪門、石川門とともに「三御門」と呼ばれ、御殿に至る要所を固めていました。いずれも四角い広場を内と外の門で厳重に固めた「枡形門」型式の城門です。中でも河北門は、大手筋の要所を防備する重要な門でした。復元建物は、安永元年(1772)に再建され明治15年(1882)頃まで存続していた河北門の姿を多数の資料の調査と検証に基づいて再現したものです。
※現地説明板より

河北門一の門


河北門の最初の入り口です。平入り門の二本の主柱の後ろに控柱を付属させ、その上に屋根を付ける「高麗門」という形式の門です。三脚門は同じ様式の一の門ですが、門幅は石川門→河北門→橋爪門の順でやや大きく造られています。
※現地説明板より

ニラミ櫓台と太鼓塀


一の門の右脇に設置された二重櫓が「ニラミ櫓」です。大手筋に「睨みを利かせる櫓」という意味でしょう。背後に見える二の丸の菱櫓(三重櫓)の偉容とあいまって、大手筋に威圧感を与えています。創建は17世紀前半とみられ、宝暦の大火(1759年)で焼失したあとは再建されず、櫓台の上に太鼓塀を巡らすだけとなりました。
※現地説明板より

河北門二の門


河北門の内側の門が二の門です。南北の石垣台の上に櫓(長屋)を渡す櫓門(渡櫓)の形式をとっています。外観は石川門とほぼ同じですが、規模は一回り大きく、幅26.9m×奥行き8.2mです。江戸時代は弓奉行の管理下にあり、弓などの武具が収納されていたと推定されます。※現地説明板より

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城郭周辺地図

石川県金沢市丸の内


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