城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | タガジョウ |
| 別称 | 多賀柵 |
| スタンプ設置場所 | 多賀城跡管理事務所 08:30-17:00 |
| 曲輪配置 | - |
| 城郭種類 | 政庁・柵 |
| 築城者 | 大野東人 |
| 築城年 | 724年 |
| 廃城年 | 不明 |
| 主な城主 | 不明 |
| 指定史跡 | 特別 |
| 標高 | 32.7 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | なし |
| 現状 | 史跡多賀城跡 |
| 駐車場 | 多賀城跡駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 国府多賀城駅 |

概要・現地案内板
今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果たしていました。
多賀城は、周囲が塀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。
多賀城の平面形は、不正方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。
そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

外郭南門跡
多賀城政庁の正面約300mに位置するこの場所で、南門と築地塀の跡が発見されました。写真の手前の小石の集まりは、礎石(柱の土台石)を安定させるための石で、ここに南門の柱がたっていたことがわかります。中央に走る土手状の高まりは築地塀の跡です。築地塀は、土をていねいにつき固めて高く築き上げた塀です。その塀の根元が写真のように残っていました。
※現地看板より



多賀城碑
奈良時代に多賀城の修造を記念して制作された石碑です。2代藩主伊達忠宗の頃に土中から発見されると、西行や源頼朝が和歌に詠んだ歌枕ゆかりの地「壺碑」と関連付けられ、有名になりました。それにより、当時の文化人や学者の注目を集めるところとなり、仙台藩や民間の俳諧師により保護顕彰されてきました。

江戸時代にここを訪れた松尾芭蕉は、時間とともに変わりゆく歌枕の中で、多賀城碑だけが昔からの変わらぬ姿を留めておることに感動したことを、「おくのほそ道」に記しています。
※現地看板より

西
多賀城
去京一千五百里
去蝦夷國界一百廿里
去常陸國界四百十二里
去下野國界二百七十四里
去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日

政庁南大路跡
多賀城の正門である外郭南門から、中枢部である政庁まで、南北にまっすぐ通じる道路で、多賀城の中で最も重要な道路です。発掘調査の結果、道路幅は、政庁第Ⅰ~Ⅱ期(8世紀)が約13m、第Ⅲ~Ⅳ期(9~11世紀中頃)は約23mであったことが分かりました。政庁南側斜面は自然石を並べた階段が設けられていました。また道路には排水用の暗渠も設置されており、ここから多数の木簡が見つかっています。

現在は政庁第Ⅰ~Ⅱ期の姿に復元整備しています。
※現地看板より




政庁復元模型
この模型は第2期(8世紀後半)の姿を推定復元したものです。主要な建物である正殿、東・西脇殿、南門のほかに、東・西楼と後殿が新たに建てられ、広場は石敷きになります。南門の左右には翼廊が付き、築地塀には東・西殿や北殿などの装飾的な建物が付け加えられています。※現地看板より

南門跡
ここは、政庁の南正面の門がありました。奈良時代後半の第2期は礎石式で、東西には門を飾るために翼廊が取り付いていました。現在表示している建物北側の石組溝の石は当時の実物です。
※現地看板より

東南建物跡

西南建物跡

西脇殿跡

石敷広場

東楼跡

政庁正殿跡
政庁の中心となる建物の跡です。礎石式の四面廂付建物で、その南は石敷の広場となっていました。現在は建物の基壇のみを復元表示していますが、礎石の一部は当時の実物です。
※現地看板より

西楼跡

後殿跡

多賀城神社

六月坂地区
外郭東門ー西門間道路の屈曲点に位置する。平安時代の役所建物跡や倉庫跡などが検出されている。
※現地標柱より

多賀神社
滋賀県にある多賀神社の分霊を勧請したと伝えられています。延命長寿の神で、年の数だけ竹の箍をおさめて祈願するのが習わしです。かつては、この場所の北東約50mの位置にありましたが、多賀城跡の発掘調査や環境整備事業により、現在地に遷っています。
※現地看板より

外郭北東隅
多賀城東辺の外郭区画施設は、奈良時代と平安時代とで位置が異なる。東側に走るのが奈良時代、西側に走るのが平安時代の築地塀である。奈良時代の外郭東門は外郭東辺北寄りに建てられるが、宝亀11(780)年の火災で焼失する。平安時代、内に入った位置に築地塀と外郭東門が新たに建てられ、櫓が設けられた。またこの頃、大畑地区の役所も一段と整備された。
※現地看板より

東大垣跡
多賀城の外周りの東を画する奈良時代の塀跡である。当時は大垣と呼ばれ高さ約4mで、瓦葺であった。現在は上部が崩壊し基部のみ遺存している。
※現地看板より


外郭東門跡
外郭東門は国府多賀城と国府の津(塩釜港)を結ぶ最もにぎわった門であった。奈良時代にこの場所に建てられ、大きく3時期の移り変わりがあった。平安時代になると約80m西に移された。ここでは第Ⅱ期の門を推定復元し、60㎝の高さまで表示した。
※現地看板より



東門北櫓跡
平安時代には、多賀城を囲む築地塀や材木塀などに、櫓(背の高い建物)が計画的につくられました。東門の前面では、瓦葺き屋根の櫓が南北対称に建てられ、これらは3時期のうつりかわり(建てかえ)がありました。ここでは、発掘で見つかった柱穴などはうめもどして保存し、2時期目の櫓の土壇(建物の土台)の形を表示しています。
※現地看板より

大畑地区

作貫地区
政庁の東に位置し、主屋を中心としたコの字型配置の役所建物跡などが見つかっています。
※現地看板より

2018/9最終訪問
城郭周辺地図
宮城県多賀城市市川
[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 宮城県の城郭一覧 ]

