コンテンツへスキップ

陸奥国 堀越城 [ HORIKOSHI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナホリコシジョウ
別称なし
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類平城
築城者曾我貞光
築城年1336年
廃城年1615年
主な城主曾我氏、津軽氏
指定史跡国指定
標高40.5 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構土塁、空堀
現状史跡堀越城跡
駐車場堀越城駐跡ガイダンス施設車場
最寄り駅弘南鉄道 新里駅


概要・現地案内板

堀越城は、戦国時代末期、のちの弘前藩初代藩主津軽為信により、津軽統治の拠点として整備されました。
為信は元禄3年(1594)に本拠を大浦城から堀越城へと移し、慶長12年(1607)に京で死去するが、後に二代藩主信枚が弘前城築城するまでの津軽氏の居城として堀越城が使用されていました。
城址は国指定史跡となり、平成の発掘調査により史跡公園として整備され、公開されています。


城犬のおいど 攻城記録


城址碑


内堀


本丸東門跡正面の内堀底面からは、内堀に架かる木橋と考えられる柱穴跡が確認された。柱穴跡は8基確認され、2列、4対に並んでおり、軸線は本丸御殿広間や東門跡などの本丸の建物群と一致する。また、幅は4mで、櫓門と想定される東門中央建物の門扉部分と考えられる。1対の礎石跡の幅と一致している。整備では、確認された柱穴跡の直上で、調査成果と、当時の橋の意匠などを検討し、木橋を整備した。なお、この木橋の柱穴跡の上からは、1611年(慶長11年)の弘前城への移転の際に廃棄されたと考えられる。大量の木製品などが出土している。
※現地説明板より

本丸東門跡


本丸東門跡は南北に並ぶ3棟の礎石建物で構成されており全体で南北32.5mの規模となります。中央建物は南北10.3m(3間)、東西2.7m(1間)、2階建の櫓門であったと考えられます。1階中央に幅4.2mの門扉が取り付き、門内部には長さ10.3mの長大な梁が架かっていました。礎石も1.0mを超える大きな石が使用されています。なお、外側の堀からは木橋跡、内側からは藩塀(目隠し塀)が確認されています。

南建物は南北12.9m(6間)、東西6.4m(3間)の1階建で、倉庫などに使用されていたようです。北建物は6m(3間)四方の建物で、内部は床張りとなるようです。階数が1階建または2階建のいずれとなるかは、はっきりしていませんが、1階部分は門番の詰所だったようです。
※現地説明板より

本丸


本丸は堀越城の中央やや西側に位置しています。平面形は五角形を呈しており、高さ約3mの土塁と、幅15~20mの内堀に囲まれています。東西両側に出入口(虎口)があり、門の跡が確認されています。本丸東門は3棟の建物で構成された、幅32.5mの規模を有する大型の建物で、内堀を隔てた三之丸との間には木橋が架かっていました。本丸西門は幅2.4mで、一対の石の基石(礎石)と二対の柱穴で構成されています。

二之丸との間には土橋が架かっていました。本丸の北側からは、城内で最も大きな建物跡が確認されています。「広間」と称されるこの建物は、城主が家臣や使者と謁見する公的な場であり、城内で最も格式の高い建物であったと想定されています。なお広間南側からは庭と推定される痕跡も確認されています。本丸内には広間の他にも、城主の私的な(奥向きの)場である「居間」「台所」「長局(大奥)」などの建物が建ち並び、本丸御殿を形成していたと考えられますが、これまでの発掘調査で全容が明らかとなったのは広間のみです。

奥向きの建物は、本丸の南西側から南側(現在の熊野宮境内)に位置していたものと思われます。現在、本丸を取り囲んでいる土塁・内堀のかたちや、東西の門、本丸御殿広間などの建物は、弘前藩初代藩主の津軽為信が、大浦城から堀越城へと本拠を移転した文禄3年(1594)に形成されたものと考えられています。なお、建物については、慶長16年(1611)に二代藩主の信枚が弘前城へと本拠を移転した際に、取り壊されたようです。
※現地説明板より

本丸御殿跡


本丸御殿広間跡は堀越城の中心的な建物です。城内で最も大きく、また、城主の公的な謁見の間としての最高の格式を有する建物でした。この建物の主屋は、東西20.0m(10間)、南北14.0m(7間)の規模を有し、北側と東側に付属屋(下屋)が取り付きます。基礎には直径0.6m前後の川原石(礎石)が使われています。主屋の南東側には東西5.7m(3間)、南北5.0m(3間)の掘立柱建物が取り付きます。これは中門と称される建物で、ここから家臣などが出入りしました。なお、藩主より身分の高い人は、塀に付属する門をくぐり、車寄せと称される部分から広間に直接出入りしたようです。建物跡から遺物はほとんど出土していませんが、周辺の地面(整地層)からは16世紀後半の陶磁器や鉄砲玉などが出土しています。
※現地説明板より

土塁


本丸展望ウッドデッキ


現在の堀越城の曲輪や土塁・堀の配置は、のちの弘前藩初代藩主、津軽為信が文禄3年(1594)に大浦城から堀越城へと本拠を移転した際に形成されたものです。この際、為信は本丸と二之丸の虎口(出入口)の延長線上に岩木山が聳えるように、意図的に配置したと考えられます。なお、堀越の前身の城である種里城や大浦城、その後の津軽氏の居城である弘前城は、岩木山を挟んでほぼ直線上に並ぶように位置しています。

享保16年(1731)に編さんされた弘前藩官選史書「津軽一統志」には、為信の夢枕に立った岩木山が加護を示す一節がありますが、為信、そして津軽氏にとって、岩木山は特別な存在であったようです。
※現地説明板より

本丸西門跡


内堀


掘立柱建物跡


この地点からは南北8間(約14.7m)、東西3間(5.8m)の掘立柱建物跡が確認されています。柱が格子状に配置された総柱建物であることから、重い物を収納する倉庫などあった可能性があります。また、二之丸虎口と本丸西虎口の中間に位置し、土塁の軸線とも一致することから、視界や動線を遮断する防御的な機能も有していた可能性もあります。

平場北側からは鍛冶炉と推定される焼土遺構が20基前後確認されたほか、竪穴建物跡、塀跡などが確認されました。さらに、周辺からはコメ・ソバ・オオムギ・アワ・ヒエなどの炭化種実も大量に出土しています。これらの調査成果から、二之丸については、倉庫や鍛冶炉など、主に貯蔵や生産に関わる施設が配置された曲輪であったと推定されます。
※現地説明板より

二之丸跡


二之丸は堀越城の北西側に位置しています。平面形を呈しています。逆コの字状の土塁により、北・西・南の三方が取り囲まれており、さらにその外側が外堀で囲まれています。西側中央に位置する虎口(出入口)で小丸と、南東側の本丸とは土橋でつながっています。整備前には、土塁は南西側の一部を除いて高さ1m程度まで削られていたほか、西側の外堀は完全に埋められていました。

今回の整備で、土塁は残存する基底部の幅やのり面の傾斜角度、本丸に残る土塁などから推定し、外堀底面から約6~7m、平場から約3mの高さで復元しています。また、外堀は主に明治時代以降の埋め土を除去し、可能な限り深さを復元しました。外堀は南北両側で約20mの幅を有しますが、西側は宅地が近接するため幅が狭い形状で整備されています。

土塁や外堀は、津軽為信が大浦城から堀越城へと本拠を移転した文禄3年(1594)に形成されたものと考えられます。また、平場からはこの時期の遺構として、掘立柱建物、竪穴建物跡、焼土遺構、柱列跡などが確認されています。平場の南側からは南北8間、東西3間の掘立柱建物跡が確認されているほか、中央では数棟の掘立柱建物跡が存在したものと想定されます。北側では20基前後の鍛冶炉と想定される焼土遺構や、竪穴建物跡1棟などが確認されています。なお、曲輪の名称である「二之丸」は、江戸時代の文献に記されていた呼称ですが、城として機能していた当時、どのように呼称されていたかは定かではありません。
※現地説明板より

二之丸虎口


二之丸虎口は二之丸の西側中央に位置し、西側に位置する小丸と土橋でつながっています。調査により、現在の園路の約1.5m下から、城に伴う時期の土橋が確認されました。この土橋は幅約3mで、南側で犬走りにつながります。犬走りは土塁外側に作られた幅約4mの通路で、南へ延びたのち土塁に突き当たり、長さ約10m、幅約5mの広場状に広がります。犬走り南側の土塁は屈曲しており、平場側の角が約1.8mの幅で開口しています。

後世の掘削などにより痕跡は明確ではありませんでしたが、門などが設置されていた可能性もあります。外堀は廃城時に大量の木製品が破棄されたのち埋没が進みました。整備では埋土を除去し、復元を行いましたが、宅地が近接している西側では、本来の幅より狭い形状で整備しています。
※現地説明板より

外堀


外堀は、二之丸と三之丸の周囲を巡る、城内で最も広い堀跡である。特に、三之丸の南側では、30mを超える堀幅がある。この外堀を渡り、三之丸南西の開口部(虎口)と、外構の城道跡とを繋いでいるのが土橋跡である。この土橋跡は、江戸時代に堀越城跡を記した文献に記載がなく、発掘調査でその存在が初めて確認された。また、外構ではこの土橋跡につながる、石敷きの城道跡が確認されている。整備では、土塁跡とともに、外堀を渡る土橋跡、外構を南北に伸びる城道跡と側溝を整備している。
※現地説明板より

二重堀


三の丸


三之丸は堀越城の中央東側に位置しています。平面形は東西150m、南北120m前後の、東西にやや長い長方形を呈しています。南北両側に土塁と外堀が構築されていますが、この土塁と外堀の間には、やや規模の小さい中土塁と二重堀がさらに構築されています。この土塁と堀の二重構造は、三之丸にのみ見られる特徴です。西側中央には内堀を渡り、本丸東門へと至る木橋が、また、南東側には虎口(出入口)から外堀を渡り、外構へと至る土橋が構築されています。

整備前には土塁は高さ1m程度まで削られていました。また、南東側の虎口は調査により発見されたものですが、二代藩主信枚による堀越城から弘前城への移転の際に意図的に埋められたようです。今回の整備で、土塁は残存する基底部の幅やのり面の傾斜角度、本丸に残る土塁などから推定し、外堀底面から約6~7m、平場から約3m規模で復元しています。また、外堀は主に明治時代以降の埋め土を除去し、可能な限り深さを復元しました。なお、外堀は北側で約20m、南側で約40mの幅を有しています。

土塁や外堀は、文禄3年(1594)に初代為信が大浦城から堀越城へと本拠を移転した際に形成されたものです。この時期の遺構として平場からは掘立柱建物跡、竪穴建物跡、柱列跡などが確認されています。平場の西側からは2棟の掘立柱建物跡、南東側の虎口からは南門跡と推定される掘立柱建物が確認されています。なお、曲輪の名称である「三之丸」は、江戸時代の文献に記されていた呼称ですが、城として機能していた当時にどのように呼称されていたかは定かではありません。
※現地説明板より

三の丸南門跡


内堀


外構


旧石戸谷家住宅


2018/5最終訪問


城郭周辺地図

青森県弘前市堀越柏田


[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 青森県の城郭一覧 ]

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP