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陸奥国 角田城 [ KAKUDA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナカクダジョウ
別称角田館、角田要害、金鶏館
スタンプ設置場所
曲輪配置輪郭式
城郭種類平山城
築城者田手宗時
築城年永禄年間
廃城年1874年
主な城主田手氏、伊達氏、石川氏
指定史跡なし/不明
標高27.6 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構土塁、空堀
現状宮城県角田高等学校
駐車場付近に駐車場なし
最寄り駅阿武隈急行 南角田駅


概要・現地案内板

角田城は、臥牛舘・金鶏館とも呼ばれ、伊達氏の居城でした。
白石城、亘理城と並んで南からの敵に対する防衛の拠点として、仙台藩の重要な要害の城でした。永禄年間には、伊達市の庶流である田手氏が、天正19年(1591)には伊達成実(伊達政宗の父の従兄弟)が居城したと伝わります。
慶長3年(1598)伊達家御一門石川照光が1万石を与えられた志田郡松山より移封、以後明治維新に到るまで約270年間、石川氏の居城となった。


城犬のおいど 攻城記録


この城は、戦国時代の終わり頃に田手氏が、天正19年(1591)に伊達成実(伊達政宗の父の従兄弟)がそれぞれ居城とした。のち、慶長3年(1598)に伊達政宗の叔父である石川昭光が入り、以後明治維新まで約270年間、石川氏代々の居城となってきた。この丘陵の形が、臥せた牛に似ていることから、別名「臥牛城」とも呼ばれる。石川氏は、もとは福島県石川町付近を治める大名であったが、第24代石川晴光に嗣子(跡継ぎ)がいなかったため、

永禄6年(1563)に伊達晴宗(伊達政宗の祖父)の四男である昭光を養子に迎え、永禄11年(1568)には昭光が石川氏の家督を継いだ。のち、昭光は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったために秀吉から所領を没収され、甥・伊達政宗を頼った。はじめ、松山城を与えられたが、慶長3年(1598)に角田1万石を与えられ、初代角田城城主となり、角田発展の基礎を築いた。石川氏はその後江戸時代が終わるまでの約270年間にわたって角田を治めるとともに、

伊達藩の家臣団の中で最も家格が高い「御一門筆頭」という家柄として藩内でも重要な役割を果たした。なお江戸幕府が「一国一城令」を定めていたことから、角田城は対外的には城ではなく「要害」として扱われていたが、実質的には城としての機能を持っていた。明治時代に入ると新政府から城の破却を命じられたため、現在、城郭が残っていないことが惜しまれる。
※現地看板より

城址碑


2024/7最終訪問


城郭周辺地図

宮城県角田市角田


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