城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | オカヤマジョウ |
| 別称 | 烏城、金烏城 |
| スタンプ設置場所 | 岡山城天守入口 09:00-17:30 |
| 曲輪配置 | 梯郭式 |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 上神高直 |
| 築城年 | 正平年間 |
| 廃城年 | 1873年 |
| 主な城主 | 宇喜多氏、小早川氏、池田氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 19.6 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | 月見櫓、西の丸西手櫓 |
| 復元建造物 | 天守、門、塀 |
| 遺構 | 石垣、水堀 |
| 現状 | 烏城公園 |
| 駐車場 | 烏城公園駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 岡山駅 |

概要・現地案内板
岡山の地は、宇喜多直家が本拠としたことにより、戦国の表舞台に登場します。
岡山城が天守や高石垣を持つ近代城郭として巨大な姿を見せるのは、直家の子・宇喜多秀家の時代で、慶長2年(1597)の完成といわれます。
岡山と呼ばれる丘の上に本丸を移し、旧河道を利用して流れを変えた旭川を背後の守りとしました。
同時に商人や職人を集めて立ち上げた城下町が、今の岡山の礎となりました。
慶長5年(1600)、秀家は天下分け目の関ヶ原合戦で西軍の主力として戦い、敗れて八丈島に流されます。
その後、小早川秀秋、次いで池田家が城主となり明治維新まで続きました。
天守は外壁の下見板が黒塗りであったことから「烏城」の名で親しまれ、また他に例のない不等辺五角形の天守台を持っています。
昭和20年(1945)の空襲で焼失し、昭和41年(1966)に再建(外観復元)されました。
現在、本丸は史跡に指定され、歴代城主によって整備された様々な積み方の石垣を見ることができます。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場



目安橋
大手(表口)側から本丸へ通じる橋で、池田光政の代に、橋のたもとに領民からの投書を受け付けるための目安箱が置かれたことからこの名がつきました。橋は明治になって撤去され、土橋に改められましたが、欄干を飾っていた擬宝珠は、天守内に 収蔵 されています。
※現地看板より

内下馬門付近の巨石
本丸入口あたりの石垣には城主の威厳や権力を誇示するため巨石が使われています。最大で高さ4.1m、幅3.4mで、厚みのない板石を立てたものです。発掘調査により、池田家が城主になった頃に築かれたと考えられています。

また豊臣家滅亡後、徳川幕府が築いた大坂城(現:大阪城)で最大の巨石である蛸石は、徳川家康の孫にあたる岡山城主・池田忠雄により運ばれたといわれています。
※現地看板より


大納戸櫓の石垣
関ヶ原合戦後に、小早川秀秋が築き、池田家が大幅に改修したとみられる石垣です。加工をあまり施さない自然石を用いていますが、上に建っていた大納戸櫓は、4階建てで天守に次ぐ大きさを誇りました。
※現地看板より

下の段

不明門下の石垣
関ヶ原合戦後、小早川時代か、その直後の池田家が城主となった頃に築かれたと思われます。中ほどの一部は天保9年(1838)に崩れて修理されています。右に接する宇喜多秀家時代の高石垣は、露出した岩盤に角を乗せ、まるで踏ん張っているかのような佇まいです。
※現地看板より

鉄門跡
くろがねは鉄のことで、木の部分を鉄板でおおったいかめしい門だったためこの名になったといいます。下の段の南側から中の段の表書院(藩政の場)へ通じる櫓門でした。
※現地看板より

中の段 表書院
岡山藩の政治が行われた御殿で、大小60を越える部屋がありました。発掘調査で出土した建物の礎石などの遺構は地下に保存し、地表には建物の位置や間取り、泉水などを表示しています。登城してきた家臣たちは南東の玄関から入り、広い廊下を通って奥へ進み、それぞれ所定の部屋で働きました。廊下に面した徒番所は城内の警備や雑用にあたる家臣の詰所でした。

藩主は、住居である本段の御殿から渡り廊下を下って北西の招雲閣に入り、南座敷で政務を行っていました。泉水のある中庭には、数寄屋(茶屋)が建っていました。北東部には台所があり、藩主の食事や儀式用の料理を作っていました。
※現地看板より

地中に埋もれていた石垣
【なぜ、ここに石垣が】
江戸時代の初めに城を改造する時に、この石垣を埋め込んで「中の段」を北に大きく広げたからです。平成5年度の発掘調査で見つかりました。石垣は展示施設の壁を越えて続き、本来の裾は床下に埋もれています。拡張後の中の段には「表書院」の御殿が建てられ、この場所の真上は台所になりました。
※現地看板より

【いつ築かれたか】
今から400年あまり前、宇喜多秀家が岡山城を築いた時の石垣です。自然の石をほとんど加工せずに用いるのが特徴で、30年ほど後に積まれた中の段北側の現役の石垣が新式の割り石を使っているのとことなります。
※現地看板より

【角が尖った珍しい石垣】
石垣の辺と辺がなす角度は70度です。これほど角が尖った石垣は全国的にみて非常に珍しいものです。石垣の東は当時の「下の段」から「中の段」に上がる道筋となり、廊下門の前身となる城門がありました。南西から石垣は裏に埋め込まれている自然の丘の形に沿って延びているのに対し、門前をきっちり南北方向に切り通したため、特異な石垣の隅が生じたのでしょう。
※現地看板より

小納戸櫓
本丸の搦め手(裏手)にあり、廊下門に迫る敵を迎え撃つための櫓がありました。壁は白い漆喰を塗った二階建てで、平面は正方形でした。一階の外向きの壁には格子窓や石落があって守りを固めていました。
※現地看板より

月見櫓
月見櫓は、岡山城本丸を構成する一二三の段の二段目に当たる、中の段北西角を固める隅櫓です。池田忠雄が城主であった時の城郭整備に伴って、元和年間から寛永間前半(1620年代)に建てらました。構造は、一部地下付きの塗籠造り本瓦葺き二階建てで、城外(北西)側から眺めると二層の望楼型、城内(南東)側から眺めると三層の層塔型を呈しています。

規模は、地階と一階が桁行(東西)32尺3寸(9・79メートル)、梁間(南北)26尺2寸(7.94メートル)、棟高45尺4寸(13.76メートル)です。地階は、一階床下の貯蔵場所であり、一階の床張りが引上げ式の戸板となっていて、有事の際にはそれを開いて一階に通じる仕組みです。一階は、西面が唐破風造りの出格子窓、北面が片流式屋根を持つ出格子窓を設け、共に石落し(俯射装置)を組み込んで、城外側へ臨戦の備えをなしています。入口は南面西寄りにあります。

二階は、西面の初層屋根の妻部に千鳥破風の格子窓、西壁に引き違い窓、北面の踊場北窓に唐破風造りの武者窓、北壁に引き違い窓を設けて、一階同様に城外側への備えを厳しくしています。その一方で、二階の城内側の東面には雨戸を持った手摺付きの縁側が廻り、内側に明り障子を立てるなど、日常生活向けの御殿仕様となっていて、月見をはじめとした四季の眺望を楽しんだり、小宴を催すのに格好の構造となっています。
※現地看板より

数寄方櫓
白い漆喰を塗りこめた三階建ての櫓ですが、伊部櫓と同じように城外側から見ると一階は石垣に隠れ二階建てに見えました。表書院の数寄屋(茶室)で使う茶道具類が保管されていたのではないかと考えられています。
※現地看板より

多門櫓
石垣の上に建てられた細長い建物を多門櫓といいます。伊部櫓と数寄方櫓の間には長さ30m、幅5mの二階建ての多門櫓がありました。城外側から見ると一階は石垣に隠れ、平屋に見えました。外向きの白い壁には格子窓や石落がありました。
※現地看板より

伊部櫓
ここには三階建ての櫓がありました。城外側かたは一階が石垣に隠れ二階建てに見えました。備前焼で栄えていた伊部村(現 備前市伊部)にちなんだ櫓ともいわれています。壁は現存する月見櫓同様白い漆喰で、岡山城では下見板張りの櫓と白壁の櫓が同時にみられました。
※現地看板より

泉水
表書院の中庭にあった泉水を復元しています。発掘調査で出土した遺構は地下に保存されています。北東の井戸から豊前焼の土管で水を引き、水が、漏れないように底に漆喰を貼って、中の島からその水が湧き出る仕組みでした。
※現地看板より

不明門
本段に上がる入口として防備を高めた大型の城門です。本段には藩主が暮らす御殿(江戸城でいう大奥)があり、限られた人しか入れませんでした。江戸時代、藩主の移動は天守近くにあった渡り廊下で行われたといいます。よってこの門は普段閉ざされ、不明門の名があります。

門は明治時代に取り壊されましたが、昭和41年(1966)に外観が再現されました。
※現地看板より


本段

天守の礎石
天守は昭和20年(1945)6月に戦災で焼失し、昭和41年(1966)に元の位置に再建されました。焼失前の柱を支えていた礎石はここに移され、元どおりに並んでいます。
※現地看板より



日本100名城スタンプ設置場所







廊下門
門の上に敵を迎え撃つための上屋があります。上屋は本段の御殿(城主の住居)と一段低い中の段の表書院(政治の場)を結ぶ渡り廊下とつながり、城主専用の廊下として使われたため廊下門と呼ばれていました。昭和41年(1966)に再建されました。
※現地看板より


小納戸櫓下の石垣
池田忠雄が1620年代に築いた石垣で、搦め手(裏手)の廊下門を守る小納戸櫓が上に建っていました。右手の角を曲がってみましょう。月見櫓の下まで続く石垣は犬島(岡山市東区犬島)から切り出したとみられる石が積まれています。刻印のある石も見られ、例えば、突き出した石(石樋)の下方には「〇に+」の形が刻まれています。
※現地看板より


旭川



六十一雁木下門横の石垣
池田家が新たな城主となり、下の段を大がかりに整備した時に築かれた石垣です。板状の大石を立てて組み込んだ部分が特徴的です。石段の上には六十一雁木上門が再建されています。階段を雁木といい、元の石段数が61段だったことが門の名の由来といわれています。
※現地看板より

本段東側の高石垣
宇喜多秀家が築いた緩やかなカーブを描く石垣の隅に、小早川秀秋が石垣を継ぎたして改修した跡が観察できます。秀家は安定性の高い大型の石材をきっちり積んでいる(左側)のに対し、秀秋は丸みの強い石材をおおまかに積んでいます。
※現地看板より


下の段広場

穴粟櫓

中門

供腰掛
この建物はもともとこの位置にあった「供腰掛」と呼ばれる建物を再現したものです。供腰掛は登城する藩士のお供の者たちが待機するための建物です。城内の絵図によると土間に縁台を設けただけの簡素な建物であったことがわかります。発掘調査では基壇や雨落ち溝、礎石の一部が見つかっています。

外観や建物の構造については資料がなくわかりませんが、建物の性格や規模、古写真などでわかる周辺の建物の外観などを参考に、前面を開放した下見板張りで入母屋造の建物と想定しました。当時のお供のように、履物を脱いで縁台でくつろげるよう整備いたしました。
※現地説明板より





城郭周辺地図
岡山県岡山市北区丸の内
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