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常陸国 小幡城 [ OBATA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナオバタジョウ
別称なし
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類平城
築城者小幡氏
築城年1417年
廃城年不明
主な城主小幡氏、大掾氏
指定史跡町指定
標高23.1 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構土塁、空堀
現状史跡小幡城址
駐車場小幡城跡駐車場
最寄り駅JR 羽鳥駅


概要・現地案内板

小幡城は、大掾詮幹(だいじょうのりもと)の三男義幹(よしもと)が室町時代(1420年ごろ)に築いたという説と、小田知重(おだともしげ)の三男光重(みつしげ)が鎌倉時代(かまくらじだい)に築いたという二説がある。
戦国時代の文明年間(1481年ごろ)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入る。
現在の城域約12ヘクタールが整備されたのは、元亀~天正年間(1570年代)と思われ、府中城の大掾氏を攻める拠点として重要な役割をはたしている。
安土・桃山時代の天正13年(1585年)の書状には小幡城将として大塚弥三郎と小幡孫ニ郎の名が見える。
この頃の城の守りを強化するため、涸沼(ひぬま)周辺の土豪が当番制で動員されている。
天正18年(1590年)12月、豊臣秀吉の権力を背景にした太田城の佐竹義宣により、水戸城の江戸氏は城をうばわれ、府中城の大掾氏は滅亡、この時小幡城も落城した。
その後、小幡は佐竹氏の秋田移封まで佐竹義宣の直轄地となり、家臣の和田昭為が管理している。
小幡城は天正十八年の落城、あるいは佐竹氏の移封の時に、数百年にわたる歴史的役割を終えたと考えられる。 

※現地案内板より


城犬のおいど 攻城記録


標柱


東関東自動車道を跨ぐ橋の袂に標柱があります。

駐車場


広い駐車場が用意されています。

入口


案内看板


堀底道


中世の城の堀は大半が水の無い空堀である。小幡城の堀も全部が空堀であり、堀底は通路として利用されていた。
※現地看板より

櫓台


小幡城遺構の特徴


小幡城は三方を湿地にかこまれた西に広がる舌状台地に築かれている。城の構造をみると、西からの敵の進入を想定していることがわかる。突き出た「折邪」は、正面ばかりでなく側面の敵に対しても威力を発揮し、また郭をとりかこむ深い「堀底道」は、敵を自然と城外へ追いやるように工夫されている。特に現在地は、堀底道から進入した敵を撃退する要所である。

高台の部分は、城の西側を中心とした情勢をつかむ「櫓跡」と思われる。また東にのびる土塁上に凹をもつ「変形武者走り」は、少ない城兵で両側の堀底道の敵を攻撃できる機能をもっている。他の城には、例をみない遺構である。
※現地看板より

土橋


郭と郭を結ぶ通路として築いた土手を、一般に土橋と呼んでいる。小幡城内では四の郭と五の郭の間(現在地)と五の郭と七の郭の間で確認されている。土橋は通路としては便利であるが、城に立てこもって戦う場合は逆に不利となるため状況によっては削り取られたのであろう。
※現地看板より

小幡城本丸跡とその外郭


まわりを五つの大きな郭でかこまれたこの場所が小幡城跡の本丸跡である。「本丸」と「二の郭」は、城主および重臣の居住地と思われる。本丸への現在の入口は、防御面からみて不自然であり、当時はもっと東よりの所から跳ね橋などでつながっていたのであろう。「七の郭」は家臣などの居住地と言われていたが、平成17年から行った東関東自動車道の発掘調査では、

溝や墓が見つかったほか、広大な広場であることも確認でき、戦いがはじまった時の兵の待機場所や、まわりの住民を避難させる場所であった。現在の「土門」と呼ばれている所は、当時の「大手門」にあたる。小幡城対岸の東南の大地にも、土塁でかこまれた区域があり、城と密接な関係が想像できる。城の鎮護のため、東北の鬼門の方角には香取神社を、また城内の「四の郭」の南かどには稲荷神社を祭っている。
※現地看板より

本丸井戸


現在、城内では二つの井戸が確認されている。一つは七の郭南角堀底道の先端にあり、もう一つがこの井戸跡である。本丸の井戸跡には、小幡城落城のとき、お姫様が金の鳥をかかえて井戸に身投げしたという悲しい言い伝えが残っている。
※現地看板より

2024/3最終訪問


城郭周辺地図

茨城県茨城町大字小幡


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