城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ウエノジョウ |
| 別称 | 白鳳城 |
| スタンプ設置場所 | 大天守1階 09:00-16:45 |
| 曲輪配置 | 梯郭式 |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 藤堂高虎 |
| 築城年 | 1585年 |
| 廃城年 | 1871年 |
| 主な城主 | 筒井氏、藤堂氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 175.4 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | 永蔵(忍者屋敷)、武器蔵(上野高校)、表門(移築)、講堂(移築)、御成門(移築) |
| 復元建造物 | 大天守、小天守、白鳳門 |
| 遺構 | 石垣、土塁、水堀 |
| 現状 | 上野公園 |
| 駐車場 | 上野公園駐車場(有料) |
| 最寄り駅 | 伊賀鉄道 上野市駅 |

概要・現地案内板
天正13年(1585)伊賀の国主となった筒井定次が文禄のころ、三層の天守をもつ平山城をここに築いた。
筒井氏国替えのあと、慶長13年(1608)藤堂和泉守高虎が入国して、これを西方に拡張し、雄大な本丸を築き、さらに外濠を画して典型的な近世城下町を建設した。
天守は慶長16年、作事なかばに台風のため倒壊、再び建てられることなく廃藩となった。
現在のものは、昭和10年の復興である。
※現地石碑より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場




城代屋敷

大納戸跡

柴小屋・米蔵

台所門跡(裏門跡)



伊賀上野城 三つの天守
筒井氏天守
天正13年(1585)、筒井定次が現天守の東方、一段高い石垣の位置に三層の天守を築いた。
藤堂氏天守
慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予国今治から伊賀、伊勢に国替えとなり、筒井氏の城郭を西側に拡張して天守台や高石垣を築いた。

慶長17年(1612)9月2日、竣工間近の5層の天守は爆風雨のため倒壊、その後、大坂夏の陣で徳川方勝利の後は再建されず、筒井古城に城代屋敷を置き幕末まで伊賀一国を始めた。
現在の天守
昭和10年(1935)地元出身の代議士・川崎克氏が藤堂氏の天守台に木造で復興した。大天守の一階には武具甲冑や伊賀焼など、二階に藤堂家ゆかりの調度や史料、川崎氏の作品などを展示、三階の格天井には横山大観はじめ各界著名人の大色紙46枚の書画が豪華な絵巻を成している。
※現地看板より















表門



庭の池状遺構
広間東側では切石列、玉砂利敷、池状の凹み、底に敷かれた平玉石などが検出されました。この場所は「御城内絵図」では「庭」と書かれており、手水鉢が置かれていたことが分かりますが、その詳細は不明でした。平成16年度の発掘調査によって、枯池が作られた広間から観賞する庭園であったことが確認できました。
※現地説明板より


庭の飛び石・石列・石敷遺構
この部分は「御城内絵図」によれば「庭」と書かれた場所で、「表向き建物」の中ほどにあたり、北は時計之間、東は通之間・銅壺之間、南は廊下、西は次部屋の廊下等に囲まれています。絵図には庭としか表示がなくどのような様子であったか不明でしたが、平成5年度発掘調査で飛び石や石列・石敷きが検出されました。整備ではこれらの庭の遺構を復元しています。
※現地説明板より

居間周辺
表向き建物の北端部には、居間が並びます。北側には広い庭も配置され、廊下で奥向き建物と繋がります。この付近は、城代の表向きの居所となっています。
※現地看板より

台所棟
台所棟は東側と西側に分かれています。東側が城代や家臣の食事支度所として使われているのに対して、この西棟は下台所や料理人の居所、食材の保管庫となっています。
※現地説明板より

城代役所跡


拝聖殿
松尾芭蕉の誕生300年を記念して昭和17年(1942)に建てられたもので、下層八角形平面、上層円形平面の木造重層で、屋根は上下層とも檜皮葺きである。外観は、芭蕉の旅姿を建築に表そうとした建立の発意者川崎克氏の着想を、伊東忠太博士の指導により極めてまれにみる和風建築としてまとめたものである。

上層の屋根は、芭蕉の笠、その下部が顔を、下層の屋根は蓑と衣を着た姿で、堂は脚部に、廻廊の柱は杖と脚を表現する。堂内には、芭蕉の等身大伊賀焼の座像が安置されている。これは長谷川栄作氏の原像をもって川崎克氏が制作したものである。
※現地看板より

2025/1最終訪問
城郭周辺地図
三重県伊賀市上野丸之内
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