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陸奥国 若松城 [ WAKAMATSU CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナワカマツジョウ
別称鶴ヶ城、会津若松城、黒川城、会津城
スタンプ設置場所天守内売店 08:30-17:00
曲輪配置梯郭式
城郭種類平山城
築城者蘆名直盛
築城年1384年
廃城年1874年
主な城主蘆名氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏
加藤氏、松平氏、保科氏
指定史跡国指定
標高230.6 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物御三階(阿弥陀寺)
復元建造物大天守、続櫓、表門、南走長屋、干飯櫓、塩蔵
遺構石垣、土塁、水堀、空堀
現状若松城城址公園
駐車場鶴ヶ城西出丸駐車場
最寄り駅JR 西若松駅


概要・現地案内板

南北朝の頃、葦名氏によってここに館が築かれたが、文禄2年(1593年)蒲生氏郷が七層の天守を建て外郭を築き、黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した。
上杉から再蒲生そして加藤となり、寛永16年(1639年)加藤明成が天守を五層に改修し北出丸、西出丸を整備して現在の城跡を完成させている。
戊辰の役(1868年)では一ヶ月の籠城に堪えた。

※現地説明板より


城犬のおいど 攻城記録


枡形


ここに見られる石垣は今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。若松城の大手門として堅固な石垣に囲まれ(桝形)、さらに右に曲がった場所には内部を見透かされないように門(北出丸大手門)がありました。この桝形は敵を三方から攻撃できる利点がありました。
※現地看板より

西出丸駐車場


ここ西出丸は寛永16年(1639年)に藩主加藤明成が本丸の防備を強化するために整備した郭である。面積は約4300坪あり、西南と西北には隅櫓がおかれ、出丸内には塩硝蔵や蝋、漆などの蔵が置かれていた。
※現地説明板より

武者走り


この石垣は、鶴ヶ城の大手門の渡り櫓などへ簡単に「昇り」「降り」ができるように造られています。V字型につくられており「武者走り」とも呼ばれ鶴ヶ城の石垣の特色の一つです。また、地表面での占有面積も少なくすみ、石積みについての当時の知恵がうかがえます。
※現地看板より

本丸埋門


天守の北西にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。城内の他の門や建築物に比較して低い門構えで埋門の形態をとっていた。大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639年)に完成した加藤時代の改修後は裏門となっている。本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。
※現地説明板より

御本丸之園


ここから見える芝生とその周辺には、鶴ヶ城本丸御殿が建ち並んでいました。本丸御殿は、表、中奥、奥向などに分けられていました。中奥は藩主が日常生活や政務を執る場で、表は藩主の謁見など公式な儀式、行事のほか藩役人の執務の場で、奥には金之間や御茶室などもあります。また、長局のある奥向はいわゆる大奥にあたり、藩主の家族や女性たちの生活の場でした。
※現地看板より

馬洗石


本丸南側土手側に藩主が馬術を稽古するための馬場があった。この石は、馬の口洗いのために用いられたと伝えられている。
※現地看板より

荒城の月碑


名曲「荒城の月」が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは土井晩翠氏を招いた、音楽祭であきらかとなった。時は昭和21年のことである。翌年、有志により詩碑建設会が設立され、同年6月5日土井晩翠夫妻を招いた盛大な除幕式が行われた。この詩碑には、晩翠氏直筆による荒城の月1番~4番までの歌詞が記されている。
※現地看板より

表御座跡


茶室麟閣


御三階跡


ここには本丸内唯一の高楼建築「御三階」がありました。藩主の御休息の間のすぐ背後に位置し、限られた人しか近づけなかったと考えられます。戊辰戦争(1868年)でも焼失することはありませんでしたが、戦いの後、戦闘によって本堂を失った市内の阿弥陀寺へ建物は移築されました。

大正年間に城跡公園として整備が始まってからも、建物のあった石垣は残り、会津若松市としては将来、再び往時のような姿でよみがえらせることも含めて、城跡全体の整備計画の中で検討しているところです。現在は、石垣が積まれたところやその周囲の地面の中に、むかしのことを知る手がかりがあるかもしれないとして、発掘調査が行われています。
※現地看板より

奥御殿の庭跡


長局跡


奥御殿跡


廊下橋


月見櫓跡


この櫓には常に武器が納められていた。また、櫓にかかる月が一際美しかったことからこのような名で呼ばれた。役割としては城下南方の物見櫓、また内濠から続く本丸南側の石垣の横矢掛としても重要な櫓だった。
※現地説明板より

干飯櫓


鉄門(表門)


帯郭から本丸内の奥御殿に通じる表門で、北向きの多聞櫓城門である。扉や柱が鉄で包まれていたことから鉄門の名がつげられている。門の石垣の工法は「切込ハギ」と呼ばれる積み方で、四辺形に加工した石を積む巧みな工法となっている。
※現地説明板より

上杉謙信公仮廟所跡


天正6年(1578)に亡くなった戦国時代の武将上杉謙信は、甲冑姿で甕(かめ)に納められたと伝えられ、居城の越後春日山城(現在の新潟県上越市)に葬られました。その後、跡を継いだ上杉景勝が会津へ移封するのにともない、謙信の墓所も会津へ移されることとなり、若松城(鶴ヶ城)内の西南の隅の仮殿に安置されたと記録があります。

当時の城内の様子は正確にはわかりませんが、「城内」が今の内堀に囲まれた中を指しているのならば、この蔵跡あたりが該当するのではないかと考えられます。慶長6年(1601)、上杉景勝の米沢転封により、謙信の遺骸も米沢城の本丸に移されました。
※現地看板より

容保桜


会津藩主松平容保公が京都守護職を拝命した際の会津藩上屋敷であった現在の京都府庁旧本館中庭において、桜守である佐野藤右衛門氏により発見された新種の桜です。佐野氏により「容保桜」と命名され、容保公ゆかりの地である本市に寄贈されたものです。
※現地看板より

綾瀬はるかさんのメメッセージ


この桜は福島の復興の象徴としてみなさんの思いが未来へ大きく羽ばたいていくような思いも込めて「はるか」と命名した桜です。復興への願い、復興に励まさる福島のみなさんの生活、夢や希望に満ち溢れた子どもたちの成長をこの鶴ヶ城から八重さんと一緒にいつまでも見守っていて下さい。そして、子どもたちの成長とともにいつか立派な花を咲かせ、入学式や入社式など新たな門出を迎えたみなさんを祝福して下さい。福島の復興、みなさんの思いが実を結びます様に、心より祈念しております。
※現地看板より

鐘撞堂


時守を置いて昼夜時刻を城下に報じていた堂で、その鐘は延享4年(1747年)若松の鋳工早山掃部介安次等の作として知られ、鐘の撞き方は江戸流であった。戊辰の役(1868年)では、ここに新政府軍の砲火が集中し、時守が相ついで斃れたが、開城の間際まで正確に時を報じ、大いに味方の士気を鼓舞した。
※現地説明板より

武徳殿


甲賀町口門跡


この石垣は、郭外より若松城の郭内に入る門の石垣で、ここを界として内側を侍の屋敷とし、外側を町民の住居としていた。郭内と郭外の間には土塁が築かれ、外濠がめぐらされていた様子が今もしのばれる。当時、城下にはこのような門が16ヶ所あり、特に、この甲賀町口は大手門として他の郭門より厳重な構えをとったとされている。今回、「甲賀町口門跡」、「天寧寺町土塁」、「三の丸堀跡」の三ヶ所が国指定史跡若松城跡として追加指定を受けたものである。
※現地看板より

2018/4最終訪問


城郭周辺地図

福島県会津若松市追手町


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