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遠江国 掛川城 [ KAKEKAWA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナカケガワジョウ
別称懸川城、懸河城、雲霧城、松尾城
スタンプ設置場所掛川城御殿 09:00-17:00
曲輪配置梯郭式
城郭種類平山城
築城者朝比奈泰煕
築城年文明年間
廃城年1871年
主な城主朝比奈氏、山内氏、太田氏
指定史跡国指定
標高52.5 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物あり
復元建造物あり
遺構あり
現状掛川城公園
駐車場掛川大手門駐車場(有料)
最寄り駅JR 掛川駅


概要・現地案内板

掛川城は、文明年間(1469~1486)頃今川氏の家臣が、掛川古城を築いたことに始まります。
永正10年(1513)頃に現在の位置に移り、今川氏の遠江支配の拠点となりました。
永禄12年(1569)徳川家康がここに立てこもった今川氏真を攻め、長期にわたる攻防の末、掛川城は開城しました。
家康の支配下に入った掛川城は、甲斐武田氏の侵攻を防ぐ拠点になりました。
天正18年(1590)豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げ、脅威であった徳川家康の領地を関東に移しました。
さらに、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。
一豊は、大規模な城域の拡張を行い近世城郭として整備し、この時初めて天守をつくりました。
その後、掛川城は、松平家・太田家など徳川譜代の大名11家26代の居城として、明治維新まで続きました。

※現地案内板より


城犬のおいど 攻城記録


大手門


この門は掛川城の城内に入る最初の門として天守と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最大の門です。天正18年(1590)より慶長5年(1600)まで在城した山内一豊が中町に開かれた松尾口の大手筋を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。

建物は楼門造りの櫓門で間口は七間(約12.7米)、奥行きは三間(約5.4米)、棟までの高さは38尺5寸(約11.6米)、二階は漆喰塗篭造りで格子窓付の門櫓をおき、庇屋根を付けています。一階の中央には一間半両開き(巾約2.4米、高さ約4.3米)の門扉、左側に一間(巾1.2米、高さ約2.2米)片開きの通用口の潜り戸を設けています。鏡柱は二尺二寸(約66糎)に一尺五寸(約45糎)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用いた壮大な造りです。冠木下の高さが14尺6寸(約4.4米)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。

嘉永の地震(1854)で倒壊し安政5年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い下げられ火災に遭い焼失しました。元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により基礎の根固石を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし、止むなく50米北側に創建当時の姿に復元しました。

この発掘で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。大手門から見る天守が一番美しいといわれます。この付近から大手門と共に天守をご鑑賞ください。
※現地石碑より

大手門礎石根固め石


大手門番所


大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物です。明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移築しましたが、昭和55年(1980)市の文化財に指定されました。

発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644~1647)に描かれた正保城絵図のとおりであることが明らかになったので、平成7年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置から約50メートル北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復元しました。
※現地看板より

三光稲荷


三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊公が掛川城主として文禄年間に城と城下町の大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉野へ御幸をされる12月21日の深夜暗闇から難渋され途中伏見にさしかかり

稲荷大社の御前で、ぬばたまのくらき闇路に迷うなりわれにかさなんみつのともし火(三の光)と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照らして無事に大和へ導かれたという故事があり伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山には「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといわれこうした御利益から大手厩の構内に御祀りされました。
※現地看板より

四足門


調査では、門の跡は見つかりませんでしたが、正保城絵図を元に復元されました。門の内側には、入城者を調べる番所がありました。本丸に通じる重要な門でした。
※現地説明板より

太鼓櫓


正保城絵図では、荒和布櫓と呼ばれる見張りの櫓がありました。今ある建物は、嘉永7年(1854)の大地震以後に建てられた太鼓櫓です。時刻を知らせる太鼓を置いていた櫓で、何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築されました。
※現地説明板より

天守下門跡


天守へ入るための二層の櫓門がありました。調査では、櫓をのせていた基壇の石垣が見つかりました。
※現地説明板より

霧吹き井戸


天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。一豊によって城域が拡張されると、天守を配置する独立した曲輪になりました。永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
※現地説明板より

天守


天正19年(1591)から慶長元年(1596)にかけ、山内一豊によって掛川城に初めて天守がつくられました。しかし、嘉永7年(1854)の大地震で倒壊し、幕末の混乱の中取り壊されました。平成5年(1993)、城絵図や古記録を元に木造により復元され、140年ぶりに再建されました。天守は、外観三層、内部四階から成ります。

六間×五間(約12m×10m)の天守本体は、決して大きなものではありませんが、東西に張り出し部を設けたり、入口に付け櫓を設けたりして外観を大きく複雑に見せています。
※現地説明板より


石落とし


一階の床の一部を石垣の上に張り出させて、敵が攻めてきた時に床板を開け、そこから石を落としたりして攻撃するためのものです。
※現地板版より

掛川城御殿


御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩政の中心となる諸役所と、城主の公邸が連結した建物です。書院造

報刻の大太鼓


安政2年(1855年)8月、掛川藩の藩主・太田氏により製作された。太鼓を打ち鳴らす回数によって城下町に時間を告げていた(明治中頃まで使用)。本来は太鼓櫓(現存)で打ち鳴らされていた。
※現地説明板より

御書院上の間


棟札


スタンプ設置場所


黒土塁


この黒土塁は非常に高く、外部から二の丸御殿を隠す目的で作られたものです。このように外から隠すための土塁を「黒土塁」と言います。御殿の東北側に小山があり、その上には物見の松があったと言われています。小山は土塁と続いていて、そこに門があったと思われます。

「粋な黒塀、見越しの松に~」という唄がありますが黒塀は必ずしも黒く塗ってある塀をさすのではなく外から内部を隠す目的の塀のことを言います。
※現地看板より

二の丸茶室


三日月堀


本丸門の前面に配置された三日月状の堀です。深さは8mありました。調査では、堀の南側から石垣が見つかりました。その下からは、柱穴が並んで見つかりました。
※現地説明板より

十露盤堀


本丸を囲む重要な堀です。十露盤堀という名称の由来ははっきりしませんが、水がたまった部分がそろばんの箱のように見えることが、その由来と考えられます。
※現地説明板より

掛川城主要部模型


この模型は、正保元年(1644)幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を基本資料として、150分の1の縮尺で制作されました。塩櫓・銭櫓のあった腰曲輪や、内堀の松尾池・乾堀は、削り取られたり、埋め立てられたりして現在目にすることはできませんが、模型ではこれらの曲輪や堀を含めた正保年間(1644~1647)頃の最盛期の掛川城の主要部が示されています。

模型の素材は、風雨、日光などの屋外での自然条件下でも耐久性が高い有田製磁器が用いられています。
※現地説明板より

三の丸


懸河旧址


東から流れてきた逆川が城山に当たり、川は深い渕となり崖をつくった。鎌倉時代から懸河と呼ばれていたこの場所が、掛川の地名の由来となった。江戸時代に、掛川城の歴代の城主が記念として榜示を立てた場所である。
※現地標柱より

松尾池跡


本丸を囲む南側の堀は、松尾池と呼ばれていました。調査では、堀の一部と江戸時代の瓦や陶器などが見つかりました。
※現地説明板より

2025/2最終訪問


城郭周辺地図

静岡県掛川市掛川

掛川大手門駐車場(有料)


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