城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ウエダジョウ |
| 別称 | 尼ケ淵城、松尾城、伊勢崎城 |
| スタンプ設置場所 | 上田市立博物館 09:00-17:00(水定休)<br>上田市観光会館 09:00-18:00 |
| 曲輪配置 | 梯郭式 |
| 城郭種類 | 平城 |
| 築城者 | 真田昌幸 |
| 築城年 | 1583年 |
| 廃城年 | 1874年 |
| 主な城主 | 真田氏、仙石氏、松平氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 455.3 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | あり |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡上田城跡 |
| 駐車場 | 上田城公園 南観光駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 上田駅 |

概要・現地案内板
上田城は真田幸村(信繁)の父、真田昌幸によって天正13年(1585)には、一応の完成をみたものと考えられている。
この上田城はまもなく、天下にその名を知られるようになった。
それは、この上田城に拠った真田氏が、2度にわたって徳川大軍の攻撃をうけ、見事にそれを撃退してしまったからである。
最初の合戦は天正13年に行われた。攻め寄せた徳川勢は7000人余、迎え撃つ真田勢は2千人弱であった。
しかし、真田氏の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり、死者を1100人余も出した。
これに対し真田方の死者は40人ほどであったという。
2度目の戦いは、慶長5年(1600)の関が原の合戦に際してのものであった。
関ヶ原へ向かう途中、上田へ押し寄せた徳川秀忠軍は、3万8千人という大軍。
これに対し昌幸、幸村父子の率いる上田城兵はわずか2500人ほどであった。
しかし、このときも徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘付けにされただけに終わり、関ヶ原での決戦に現われるという大失態を演ずることになる。
上田城はいわば地方の小城であった。
石垣も少なく、一見したところ要害堅固な城とも見えない。
しかし実際は周囲の河川や城下町を含めた合体がきわめて優れた構造となっていたことが現在、学術的研究によって明らかになってきている。
全国に数多い近世城郭のなかで、2度も合戦を経験し、しかも常にこのような輝かしい戦果をあげた城は、ほかに見ることはできない。
上田城はその後、徳川軍の手で破却されたが、真田氏にかわって上田城に入った仙石氏によって復興された。
(寛永3年、1626)この時復興された上田城は、真田氏時代そのままであったとみてよく、仙石氏の後、松平氏の世となってもほとんど変化はなかった。
廃藩置県後、明治7年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となった。
この時、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は、明治12年、松平神社(現真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで明治26年には、残りの土地を遊園地用として寄付した。
これが上田城跡の公園化への第一歩となった。
現在三の丸地域は改変しているが、本丸・二の丸には土塁、堀跡などがあり、かつ本丸の3基の隅櫓は昔の姿を止めている。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

南櫓下の石垣について
南櫓下の石垣は、上田城の南面を護る天然の要害「尼ヶ淵」より切り立つ断崖に築かれています。中段石垣は、長雨により一部崩落したことから修復工事を実施しました。中央部の崖面露出部分は、崖が張り出しており石垣が無かった部分であることから、原形に基づきモルタルで修復しました。
※現地看板より
尼ヶ淵と石垣
本丸南側の尼ヶ淵は崖面がもろく崩れやすい性質だったことから、築城以来崖の保護対策が講じられてきました。南・西櫓下の下段には享保の洪水(享保17年・1732)後に設置された大規模な石垣があります。

本丸東西虎口の土橋より南側の堀は、正保4年(1647)江戸幕府に提出した絵図では『から堀』と記されており、比較的早い時期、または当初から空堀だったことが分かります。ただ東虎口側の東南隅にある石垣には排水口があり、水を入れた、あるいは入れる意図があったことが分かります。
※現地看板より

お堀の移りかわり
けやき並木のこの場所は上田城二の丸の堀の跡です。二の丸をかぎの手に囲んで、その延長は約646間(1,163m)あり、上田城の固い守りに役立っていました。その後、昭和3年5月上田温電北東線が開通し、この地を電車が通っていました。しかし、昭和47年2月電車が廃止され現在に至っています。
※現地看板より


上田城櫓台跡


東虎口櫓門

真田石
大手の石垣に巨石を用いる例は多く、城主はその権威を示すために、大きさを競ったという。真田石は、真田信之が松代に移封を命じられた際に、父の形見として持っていこうとしたが、微動だにしなかったという伝承がある。現在ある石垣は仙石忠政が造ったものであるが、真田石に寄せる人々の敬愛の情がうかがえる伝承である。※現地看板より


北櫓

南櫓

駕籠
旅の途中埼玉県鴻巣で死去された真田信之の妻 大連院の亡骸を、上田まで運んだ駕籠。大蓮院は徳川家康の重臣本多忠勝の娘で、小松殿(小松姫)と呼ばれ、死後は大蓮院と追号された。賢婦人で女丈夫じょじょうふの聞こえが高かった。元和6年(1620)、48歳で病没。
墓は上田の芳泉寺のほか、沼田(群馬県)と鴻巣にもある。
※現地説明板より



天正年間の上田城絵図

元禄15年の上田城絵図


懸魚



本丸跡


本丸西虎口
本丸には東西2箇所、二の丸には3箇所の虎口がありました。虎口とは、城内への敵の侵入を防ぐために城の門に枡形を造って曲げるようにした出入り口のことです。平成3年に実施した本丸西虎口の発掘調査では、櫓門の礎石及び石垣の根石等が検出されました。このことにより、本丸西虎口と同様、西虎口にも櫓門1棟があったことが分かりました。

また石垣の天端には、櫓門下層最前列の冠水と、最後列の敷桁を載せるための切り欠きが残っています。
※現地看板より

西櫓


堀の水源について
千曲川の第二段丘上に広がる上田城下町は、ほぼ平坦であるが、東方の城下町が城郭部分よりやや高くなっています。従って、堀の水は城より約4km東を流れる神川から取り入れていました。現在は、櫓下の芝生広場から地下水を汲み上げて、堀へ供給しています。
※現地看板より


本丸北西隅櫓跡
仙石忠政によって復興された上田城には、本丸に7棟の二層隅櫓と2棟の櫓門が建てられていました。本丸の東西の虎口(出入口)には、一対の石垣が築かれ、櫓門と2棟の隅櫓が建てられ、北東部の土塁上には2棟、北西部の土塁上には1棟の隅櫓が建てられていました。本丸北西部の隅櫓は、二の丸西虎口の正面に位置し、西側から侵入してくる敵に備えた櫓でした。

これらの建物は、明治維新後に政府によって民間に払い下げられ、現在の西櫓以外の建物は取り壊されたり、移築されたりしてしまいました。その後、昭和17年に2棟の隅櫓が上田市民の寄付金によって買い戻され、昭和18~24年にかけて現在の南櫓と北櫓として復元されました。また、平成6年には本丸東虎口に櫓門が復元され、往時の姿を取り戻しました。本丸北西部の隅櫓跡は、平成6年度に発掘調査が行われ、土塁の上に直接建てられていた建物であったことが確認されました。

現在、地上に露出している礎石は、隅櫓の中央に建てられた芯柱をすえるためのもので、円形の柱座が彫られており、芯柱は直径約50cmの丸太材の柱であったことがわかります。この礎石の周囲には約2mの範囲で栗石が残っており、本来の位置を留めていることがわかりました。また、建物の基礎材をすえるための栗石列や小礎石も検出され、この隅櫓が現存する西櫓などと同じく南北5間、東西4間の規模を有する建物であったことが確認されました。
※現地看板より

2017/3最終訪問
城郭周辺地図
長野県上田市二の丸
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