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下野国 赤見城 [ AKAMI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナアカミジョウ
別称なし
スタンプ設置場所
曲輪配置連郭式
城郭種類平城
築城者足利俊綱
築城年1175年
廃城年1614年
主な城主足利氏、戸賀崎氏、赤見氏、佐野氏
指定史跡市指定
標高50.0 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構あり
現状赤見城保育園跡地
駐車場付近に駐車場なし
最寄り駅JR 吉水駅


概要・現地案内板

赤見城跡(一名町屋城)は中世城館遺構として、最も立派に原形を留める佐野氏の代表的文化遺産である。
伝承古記録によれば、藤原秀郷の子孫足利俊綱が安元元年(1167)に築城し、治承2年(1181)に居城したと伝えられる。
俊綱その子忠綱は領地のことで新田義重と争い、平重盛に頼ったので、そのあと源頼朝と対立した。
そして志田義弘の乱に義弘に応じたため頼朝の軍勢に攻められ、俊綱はその家臣に殺害され、忠綱もその後飛駒で討たれ足利氏は亡びた。
ところが俊綱の弟佐野成俊・有綱はそのあとを嗣いで佐野氏が興隆することになる。 
赤見城に佐野基綱を頼って落ちのびたと称する源義仲の子、岩崎義基の所領となって、その家臣戸賀崎義宗・荒川満氏・戸賀崎清氏・荒川氏重・同詮長・赤見仲村・同義重等が建仁元年(1201)から約200年間ここに居城したといわれる。
その後応永12年(1405)から関東管領足利持氏の支配を受け家臣が在城した。文明3年(1471)足利成氏の家臣南式部大輔父子が赤見城を守っていたが、上杉家の家臣長尾景信に攻められ落城した。
そのあと赤見には永正12年(1515)から赤見六郎左衛門が居城し、約30年間その力を保持した。
佐野盛綱・泰綱の代になり、赤見氏は佐野氏と対立した。佐野氏は不意に赤見城を夜襲したため、赤見父子は常陸に母系を頼って逃れた。
佐野昌綱の代になり和睦し、佐野武士団の有力な一員となった。
この間赤見城は、唐澤山城の重要な支城として隣国足利の長尾氏との攻防の拠点となった。
佐野宗綱戦死のあと、北条氏忠が佐野氏忠として尾形山に迎えられ、佐野庄は大部分北条の勢力下におかれた時、赤見氏は岩崎氏などとともに反北条氏の中心的役割を果し、天徳寺了伯と関係し秀吉と結び佐野家再興の原動力となり、赤見城がその根拠地となった。
徳川政権の成立とともに慶長18年(1613)佐野信吉の改易により、四百余年の興亡の歴史を伝えた赤見城も廃城となった。
16世紀末の記録(唐澤三里四方出張改め)や口伝によれば赤見城は東西約480メートル、南北約380メートルの規模をもち、この本丸を囲んで東に二の丸、南に三の丸、西に西の丸、東北の北の丸を配し、いづれも土塁と濠で囲まれていた。東西の方に二つの捨郭(捨曲輪)があり、西南は大湿地帯であったという。
東北より出流川、西北より駒場川の水を最大限に利用したもので、その規模は現在の町屋全域に当り、その中に多くの武士屋敷や防禦陣地が構築されていたと考えらえる。

※現地石碑より


城犬のおいど 攻城記録


赤見城保育園跡


城址碑


土塁



2025/3最終訪問


城郭周辺地図

栃木県佐野市赤見町

付近に駐車場なし


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