城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | マツシロジョウ |
| 別称 | 海津城、貝津城、茅津城、長野城、待城、松城 |
| スタンプ設置場所 | 真田邸 09:00-17:00 |
| 曲輪配置 | 輪郭式 |
| 城郭種類 | 平城 |
| 築城者 | 武田信玄 |
| 築城年 | 1560年 |
| 廃城年 | 1873年 |
| 主な城主 | 武田氏、森氏、真田氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 351.1 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | あり |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡松代城跡 |
| 駐車場 | 松代城無料駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 篠ノ井駅 |

概要・現地案内板
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との「川中島の合戦」の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3(1560)年頃に普請が完了したものと伝えられています。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸、三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。
元和8(1622)年に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。
松代城は北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けて二の丸、三の丸、花の丸などの曲輪を構えていました。
明治5(1872)年の廃城以降、建物はなくなったものの、昭和56(1981)年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

松代城(海津城)跡〔国史跡〕
松代城は、江戸時代には松代藩主・真田家の居城でした。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城です。 海津城の築城年代は不明ですが、海津城の名が文献に確認できるのが永禄3年(1560)ですので、このころにはすでに築城されていたことがわかります。

戦国時代から江戸時代初頭までこの地を支配した武田信玄や上杉景勝などにとって、この城は北信濃を支配する上での軍事的・政治的に重要な拠点となっていました。 元和8年(1622)に真田信之が松代に移ると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。その後、江戸時代の半ばには、御殿が城の南西に位置する花の丸に移ることになり、本丸は機能を持たなくなりました。






橋詰門(高麗門)

太鼓門前橋
太鼓門表門(橋詰門)の前には橋がかかっていました。内堀の調査では、堀のなかから30本以上の折れた橋脚を発見しました。橋脚の形状や打ち込まれた層位の違いから、橋の掛けなおしが4回以上行われたことが分かりました。このことから災害の度に橋が崩落・破損したという当時の史料記載を裏付けました。発見した橋脚や江戸末期の絵図面をもとに前橋を忠実に復元しました。
※現地看板より

太鼓門(櫓門)
太鼓門は本丸内では一番大きな門でした。本丸大手(正門)の出入口(虎口)は、桝形に石垣をまわし、二層の櫓門(太鼓門)と桝形門(橋詰門)の2つの門で構成しています。
このような形を桝形といい、本丸を厳重に守っていました。良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、絵図面などから板葺で切妻屋根の姿を忠実に復元しました。太鼓門の名は、時を告げる太鼓を備えていたことに由来したようです。
※現地看板より






石垣
松代城は、本丸の周囲や出入口などの重要な部分に石垣を用いました。大小さまざまな自然石を巧みに積み上げた、たいへん特徴的なものです。とくに本丸北西の戌亥隅櫓の石垣は松代城内でも古い近世初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工の技術の高さを物語っています。

石垣の修理工事では、可能な限りその特徴を活かし、明治以降の改変や消失したもの、構造的に不安定になっている箇所について、当時と同じ工法で積み直しました。
※現地看板より

井戸跡




二の丸御殿跡
本丸の裏口(搦手)に位置する門です。太鼓門と同様に櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成でした。18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから「水之手御門」と呼ばれることもありました。絵図資料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。
※現地看板より


石場門跡
二の丸の東には石場門がありました。実物の石場門礎石は地中に保護していますが、門の位置をレプリ力の礎石で示しています。主望の裾部分に立ち並ぶ平石は土塁の醬めや水切りのためのものと思われます。
※現地看板より

東不明門前橋
本丸東側には「東不明門」と呼ばれる櫓門がありました。当時の門礎石は保護のために地表下30㎝に埋設し、レプリカの門礎石で門のあった位置を示しています。通常この門は閉じられており、太鼓門前橋などが開かれていたようです。また、内堀からは折れた東不明門前橋のものと思われる橋脚が見つかりました。
※現地看板より

東不明門跡

本丸御殿跡
本丸内には江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。調査では建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、享保2(1717)年の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっています。しかし度重なる水害の影響により、明和7(1770)年に城の南西に位置した花の丸に御殿を移しました。
※現地看板より



海津城址碑

戌亥櫓台


北不明門
本丸の裏口(搦手)に位置する門です。太鼓門と同様に櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成でした。18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に位置していたことから、『水ノ手御門』と呼ばれることもありました。絵図資料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。

絵図資料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。
※現地看板より



土塁
主要部である本丸以外の曲輪は、基本的に堀と土塁によって囲まれていました。しかし、史跡指定を受けた頃には、北西側土塁の一部を残すのみで、そのほとんどは削平されていました。

江戸時代後半に行われた千曲川の改修により、川と城の間には百間堀・新堀が造られ、それらの堀際には「不崩の土手」と呼ばれる土塁が築かれました。また幕末の絵図には土塁の中にトンネル状の「埋門」が描かれています。
※現地看板より

2016/10最終訪問
城郭周辺地図
長野県長野市松代町松代
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