城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | コウザシジョウ |
| 別称 | なし |
| スタンプ設置場所 | ー |
| 曲輪配置 | 輪郭式 |
| 城郭種類 | 平城 |
| 築城者 | 上杉景勝 |
| 築城年 | 1600年 |
| 廃城年 | 1601年 |
| 主な城主 | 上杉景勝 |
| 指定史跡 | 未指定 |
| 標高 | 199.4 m |
| 城址碑 | なし |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 私有地(田畑) |
| 駐車場 | 付近に駐車場なし |
| 最寄り駅 | JR 七日町駅 |

概要・現地案内板
神指城は、蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3年(1598)に会津の領主となった上杉景勝が、重臣の直江兼続に命じて築城させた城です。
慶長5年(1600)3月から工事が開始され、同6月には一応形が整ったと言われています。
縄張りは、本丸と二ノ丸から成る輪郭式の平城で、それぞれ濠と土塁が取り囲む構造となっています。
このような形の縄張りを持つ城は、身近な所では山形県の米沢城が代表的です。
面積は、本丸だけでも約56000㎡、二ノ丸を含む全域では約500000㎡もあり、若松城を遥かに凌ぐ規模の壮大な城でした。
この地が城郭建設地として選ばれたのは、若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城地として適していたためと考えられます。
しかし、築城半ばであった神指城も、徳川家康による会津征伐の情報を得るなどの情勢の変化により工事は中断されます。
そして、関が原の合戦後の慶長6年(1601)には上杉家は米沢30万石に転封となり、神指城は完成を見ないまま廃城となりました。
このように、築城時期と廃城時期が特定できる城郭として貴重な存在となっています。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
二の丸北西隅土塁

天守予定地

高瀬の大木
慶長年間に上杉景勝が築城した神指城跡の東北隅の土塁上にある。 築城前から既に大木であったことが知られ、根元の周囲12.55メートル、目通りの幹囲10.45メートル、樹高24.64メートルある。

大枝の折損が相次ぎ、幹部に亀裂が生じてきたが、樹姿はなお堂々としてすぐれ、ケヤキの巨樹として有数のものである。
※現地看板より

本丸石垣基礎石
慶長5年、時の会津藩主上杉景勝が高瀬村に新城の築営を行ったが完成しないまま現在に至る。この巨石はここより南方300mの本丸に慶山村「現・東山町」の山中から運んだといわれる石垣の基礎石で昭和58年にここに移し保存するものである。
※現地看板より


案内看板


本丸跡




パンフレット設置場所

穴太積み石垣跡
織田信長の安土城石垣を築いた穴太衆が考案し江戸時代に技術が完成した、耐久力に優れた独特の石垣。普通野面積みともいわれるが裏込め石を大量に詰める為、正式には穴太積み石垣と云う。今、皆さんが立っている足元の土を掘れば、沢山の裏込め石が出て来ます。

此処の石垣は、約360年前に鶴ヶ城に運ばれ難攻不落の名城の石垣に利用されました。
※現地看板より

東向きの神指城は、東西と北側に城門を築き、此処南側は高さ20m、東西に300m程の高石垣に囲まれていた。本丸は深さ1丈、10間濠(20m)の内濠に囲まれていた。南から攻めて来るであろう、徳川勢に対抗する構えであった。
※現地看板より

土塁


二の丸北側の土塁

2025/5最終訪問
城郭周辺地図
付近に駐車場なし
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