城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | タナクラジョウ |
| 別称 | 亀ヶ城 |
| スタンプ設置場所 | - |
| 曲輪配置 | 輪郭式 |
| 城郭種類 | 平城 |
| 築城者 | 丹羽長重 |
| 築城年 | 1625年 |
| 廃城年 | 1868年 |
| 主な城主 | 丹羽氏、内藤氏、太田氏、松平氏、小笠原氏、井上氏、阿部氏 |
| 指定史跡 | 未指定 |
| 標高 | 264.8 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | あり |
| 復元建造物 | あり |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 亀ヶ城公園 |
| 駐車場 | 亀ヶ城公園駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 棚倉駅 |

概要・現地案内板
二代将軍徳川秀忠は、丹羽五郎佐エ門長重に命じて、棚倉に平城を築かせた。
長重は案を練り、この地にあった近津神社の神境を最適地とし、宮を現在の馬場都々和気神社に移し、寛永2年、この地に築城をはじめた。
寛永4年、長重は白河に移されたが、代わって滋賀県近江山城より内藤豊前守信照が城主となった。
阿部美作守正静の代になり、戊辰戦争の兵火にかかり、慶応4年6月24日落城した。
この間250年、城主の代わること16代であった。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

内濠

本丸


棚倉城之図

棚倉町城下絵図
棚倉は、常陸国(現茨城県)の平潟港からの街道が通り、新政府軍にとっては、会津に向かう上で重要な位置にあった。又、新選組の斎藤一らも会津へ向かうためこの街道を利用した。戊辰戦争での棚倉藩は、奥州越列藩同盟軍として、藩の主力が各地で戦った。

中でも藩士阿部内膳率いる「十六ささげ隊」の活躍は仙台藩の「鴉組」とともに「細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕」と謡われるほど新政府軍から恐れられた。慶応4年(1868)6月24日、各地へ出勤し手薄になった棚倉城下に、参謀板垣退助が率いる新政府軍総勢880余名が大砲6門をもって進撃し、主力を欠く棚倉城は、1日で城下町の一部とともに焼失した。
※現地看板より

亀ヶ城公園

本丸土塁

隅櫓跡


隅櫓跡



隅櫓跡




棚倉町合併記念碑
棚倉城・概要が記されている



番所跡

北門跡

案内板

棚倉町茶室
番所跡

追手門跡
元和8年(1622)常陸国古渡から棚倉に入封した丹羽長重は、寛永2年(1625)この地に鎮座していた近津明神(馬場都々古別神社)を現在の馬場に遷宮して、その境内地に輪郭式(本丸・二ノ丸・三ノ丸)の平城である棚倉城を築城しました。本丸には大きな土塁どるいを築いて、二ノ丸西側にのみ石垣を用いる等の特徴があります。

長重は寛永4年に白河へ転封となり、白河城の改築も行っています。長重の父は織田信長の家臣で安土城築城の責任者を務めた丹羽長秀です。棚倉城は関東と東北の境目にあることから、親藩・譜代の大名が治める城でしたが、慶応4年(1868)の戊辰戦争によって城下の一部と共に焼失しました。城の正門である追手門は明治20年(1887)東白川郡役所の建設に伴う盛土で長く所在が不明になっていましたが、平成17年の試掘調査で門の礎石6基が発見され、位置が判明しました。

追手門の構造は礎石の配置から、脇戸と脇塀を持つ高麗門と呼ばれる門であったと想定されます。礎石の材料には白河石が利用されていました。発見された遺構は盛土して保護を図っています。
※現地看板より

棚倉城跡の大ケヤキ
元和8年(1622年)に棚倉藩主となった丹羽長重は、寛永2年(1625年)この地に鎮座していた近津明神―現在の馬場都々古別神社を遷宮して、その境内地に棚倉城を築城しました。 この大ケヤキは近津明神の御神木で、形が優れていたために残されたと伝えられています。

樹齢は約650年、根周りは13メートル、2個の瘤のある周囲は9.5メートル、樹高は32.3メートル。なお、町では、先人が育んで来た歴史の生き証人である大ケヤキを永く後世に継承するため、樹木の保護及び育成環境の保全に努めています。
※現地看板より

城址碑
東二の門跡


隅櫓跡

創建之碑


亀魂碑


忠霊塔

畑俊六元帥終焉の碑

北二門跡

内濠

2025/5最終訪問
城郭周辺地図
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