城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | イナワシロジョウ |
| 別称 | 亀ヶ城 |
| スタンプ設置場所 | ー |
| 曲輪配置 | - |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 佐原経連(猪苗代経連) |
| 築城年 | 1191年 |
| 廃城年 | 1868年 |
| 主な城主 | 猪苗代氏 |
| 指定史跡 | 県指定 |
| 標高 | 552.0 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡猪苗代城址 |
| 駐車場 | 猪苗代城址駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 猪苗代駅 |

概要・現地案内板
三浦氏の一族である佐原義連は「奥州征伐」の軍功により、頼朝から会津四郡を与えられました。
その子盛連には6男があり、長男である大炊介経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称しました。
経連は、磐梯山南麓の弦峯の地に建九二年(1191)亀ヶ城を築いたと伝えられています。
以後、14代盛胤まで猪苗代氏代々の居城でしたが、天正17年(1589)「摺上原の戦い」で芦名方が伊達勢に敗退したことにより、盛胤も湖南横沢に引退し、猪苗代城主はここに終わりを告げました。
しかし亀ヶ城は、江戸初期に出された一国一城令にも破却されず、近世を通じて城代が置かれ、幕末の戊辰戦争によって焼失するまで会津藩東の要として残された名城です。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場

野口英世博士ゆかりの地
博士が通っていた猪苗代尋常高等小学校のすぐ近くでしたので、児童たちの遊び場になっていました。二ノ郭にはアメリカから寄贈された野口英世像があります。

この城は源頼朝奥州征伐の論功行賞によって会津の地を与えられた佐原一族である猪苗代氏の居城でしたが、若松城(鶴ヶ城)の出城ともなっていました。
※現地看板より

桝形虎口



鐘楼と三本杉井戸
猪苗代城には二つの井戸跡があり、その構造はいずれも石組の丸井戸である。


帯郭法面石垣
法面基部を補強する石垣です。創築は、大手口多聞櫓石垣(文禄~慶長期)と同時で、北半上段に鏡石が2個配されております。その下方は、創築当初(文禄~慶長期)に属する石垣ですが、他は、江戸中期以降に間地石を持って修築されています。

赤く染められた部分が孕み出し、石垣倒壊の恐れがあることから、史跡内の安全確保及び石垣保全のため、令和2年度に応急措置として、大型土のうを設置しました。
※現地看板より


二の郭櫓門跡

二の郭

野口英世胸像

四脚門跡


本丸

雁木





井戸門跡


空井戸跡
本丸の屋形や籠城に備えて、水を供給するために開削された井戸である。


南帯郭


古民家

搦手道

搦手道の階段
大手道の階段は昭和34年に遺構は破壊され、コンクリート階段になってしまったが、搦手道の階段は遺構が残っており、当時の排水側溝と階段の踏面石が残されています。

西帯郭

北帯郭

歌碑


大手口多聞櫓台石垣

亀ヶ城鐘楼跡
現在、亀ヶ城跡入口の土堤にある鐘楼は、昭和5年までこの地にありました。当時の鐘楼の建物は木造で、高さは3階建てほど、屋根はコパ葺きでした。ぬきは厚さ1寸5分、幅7寸の通し貫で、方ずいも取付、周りは板囲いでした。

建物の老朽化により、危険なため昭和5年8月中頃に撤去されましたが、鐘は現在の鐘楼に取り付けられています。
※現地看板より

2025/5最終訪問
城郭周辺地図
[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 福島県の城郭一覧 ]

