城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | カメヤマジョウ |
| 別称 | 作手城 |
| スタンプ設置場所 | - |
| 曲輪配置 | - |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 奥平貞俊 |
| 築城年 | 1424年 |
| 廃城年 | 1610年 |
| 主な城主 | 石橋奥平氏 |
| 指定史跡 | 未指定 |
| 標高 | 549.8 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡亀山城址 |
| 駐車場 | 亀山城駐車場 |
| 最寄り駅 | JR 新城駅 |

概要・現地案内板
新城市作手白鳥の禅源寺の「亀山後伝記」によると、奥平貞俊は応永31年(1424)に川尻城を築き、その後亀山城をこの地に築城して移ったとされる。
以降、貞俊・貞久・貞昌・貞勝・貞能の5代までが居城したという。
天正元年(1573)8月、貞能・信昌父子は、古宮城に本拠を持つ武田家から離反し、石堂ヶ根や田原坂等で転戦して武田軍を敗走させた。
その後の天正3年(1575)、信昌は長篠城主となった。
同年5月、長篠・設楽原の戦いが勃発、長篠城は武田勢1万5千の猛攻を受けたが、信昌はよく籠城に堪え、織田・徳川連合軍の援軍を得て大勝した。
戦後、信昌は新城城を築城してこれに入り、家康の長女、亀姫を妻に迎えた。
慶長7年(1602)、信昌の4男松平忠明が父祖の旧領である作手藩主となり、亀山城を復活させた。
同15年(1610)、伊勢亀山城へ転封となり、それ以降は廃城となり現在に至っている。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

案内看板

入口








二の丸


本丸虎口

本丸

土塁

城址碑と案内看板
天授年間(1375~1381)、現在の群馬県から新城市作手地区に移住した奥平貞俊は、新城市作手白鳥の禅源寺の「亀山後伝記」によると、応永31年(1424)に川尻城を築き、その後亀山城(新城市作手清岳)を築城してここに居城したとされている。

初代・貞俊から貞能までの5代166年間この地に住み、天正元年(1573)8月、所謂田原坂石堂ヶ根の戦を最後に貞能とその嫡子信昌は共に作手を去り、信昌は長篠城の城将となった。そして、天正3年(1575)5月、武田勝頼と長篠・設楽原の戦いをなすに至った。信昌はこの戦いの戦功により、新城城主となり、さらに関東移封となった。

その後、慶長7年(1602)信昌の4男松平忠明が、作手藩主に封ぜられ、亀山城は復活したが、同15年(1610)伊勢亀山城へ転封となった。それ以降は、廃城となり現在に至っている。遺構は本丸、二の丸、各種曲輪、土塁、空堀などが現存している。登城道への防備性が高い構造となっており、地形に即した土木工事が行われた縄張りであったことが考えられる。

また、本丸での発掘調査の結果から、この城は奥平氏の居館ではなく軍事的拠点であった可能性が高いと考えられている。
※現地看板より

腰曲輪

亀山城址の図


木戸口


西曲輪



腰曲輪


南曲輪

壕

虎口

土塁


大手址

東曲輪

二の丸



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