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越後国 下条城 [ GEJYO CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナゲジョウジョウ
別称山口陣屋
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類平城
築城者下条氏
築城年鎌倉時代
廃城年1871年
主な城主下条氏
指定史跡不明または未指定
標高6.3 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構なし
現状私有地(宅地)
駐車場付近に駐車場なし
最寄り駅JR 水原駅


概要・現地案内板

伊豆国(現在の静岡県)から源頼朝の命により地頭として派遣された大見一族の大見家久が文永2年(1256)、この下條に館を構え下條氏を名乗ることとなりました。
館は、安野川の自然堤防上にあって丸の内と呼ばれる内部と堀を隔てた両側に外郭からなっていたと考えられます。
織田氏と上杉氏の争いである、天正10年(1582)の新発田の乱では、上杉景勝方の前線拠点として、新発田重家と度重なる攻防を繰り返し、笹岡氏・安田氏・水原氏の各館と共に阿賀北防衛の重要な役割を果たしました。
下條氏は、その後代々「采女」(官職名)を名乗り、歴史上有名な川中島合戦にも参陣して武功を上たと伝えられています。
上杉氏の会津国替えに伴い、四千七百石で二本松城主、その後米沢移封により長井に移り鮎貝城の城代(城の管理役職)を勤め、以後、侍組・福島奉行など米沢藩の要職につきました。
舘之越の地名は、この下條氏の館に関係する名称に由来するものです。
その他にも、江戸時代に新発田藩が陣屋を置いたことで、早道場・代官小路・蔵小路などの地名も残っています。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


下條采女の碑


この下條采女の碑は、碑文から文化10年(1814)に館跡に建立され、その後諏訪神社に移転され、長い年月を経て境内の片隅に埋もれかかっていたものを町内会に諮り、現在地に顕彰したものです。
※現地看板より

2025/4最終訪問


城郭周辺地図

新潟県阿賀野市山口町

付近に駐車場無し


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