城郭DATA -CASTLE DATA-
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | トヨダジョウ |
| 別称 | 花ヶ崎城 |
| スタンプ設置場所 | ー |
| 曲輪配置 | - |
| 城郭種類 | 平城 |
| 築城者 | 豊田善幹 |
| 築城年 | 1346年 |
| 廃城年 | 1599年 |
| 主な城主 | 豊田氏、多賀谷氏 |
| 指定史跡 | 未指定 |
| 標高 | 19.4 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | なし |
| 現状 | 私有地 |
| 駐車場 | 城址碑横に駐車スペース有 |
| 最寄り駅 | 関東鉄道 南石下駅 |

概要・現地案内板
豊田城は、後冷泉天皇の永承年間(1046~1063)、多気太夫常陸大掾平重幹の第二子四郎政幹が豊田郡(石下町、千代川村、下妻市、糸繰川以南、八千代町東南部大半、水海道市大半)を分与されて石毛(若宮戸及び向石下)に住し、石毛荒四郎又は赤須四郎と名乗り、周辺一帯に亘ってその勢威を張っていたが、前9年の役にあたり源頼義、義家父子に一族郷党を率いて、千葉常胤らを共に従い、阿武隈川の先陣を始め得意の騎馬戦法を駆使して数度の大功を立て、安倍頼時、貞任、宗任親子を討って凱旋、天喜二年(1054)重き恩賞の栄に浴して豊田郡(江戸期以降の岡田・豊田両郡)を賜り、鎮守府副将軍に列す。
名を豊田四郎政幹(基)と改め豊田、猿島両郡の願主として君臨し、館を若宮戸及び向石下と構えるも、後に子孫居所を変え11代善基、台豊田(今の上郷)よりこの地に城を築いたのが始まりといわれる。
これよりは豊田氏の勢いは大いに奮い、漸次郭の城を整え本城、中城、東城の三館を以て構成広く常総を圧した。
録するに豊田氏の源平相剋の時代にあって源氏に属し、平氏の栄華を西海に追い、文治5年(1189)兵衛尉義幹、常陸守護職八田知家に従い奥陸に藤原泰衡を討ち、建保元年(1213)同幹重、泉親平の党上田原親子三人をとりこに、宝治元年(1247)三浦泰村の乱に連座し、一時鎌倉の不興を買いしも、武威はいよいよ高揚した。
南北朝時代は南朝に与し、北畠親房、護良親王を小田城、関城に擁して戦い、後に高師冬と和解して足利家に従属する。
戦国時代に入り、各地に群雄が割拠するや常総の風雲も急を告げ、対処するに豊田氏は金村城、長峰城、行田城、下栗城、吉沼城、袋畑城、羽生城、石毛城等の支城及び常楽寺、報恩寺並びに唐崎、長萱、伊古立、小川らの諸将を託したが、結城、佐竹の大勢力に次第に領域を狭められつとに威勢の後退を見るに至った。
21代政親、22代治親の代に至り、殊に下妻城主多賀谷重政、政経の南侵甚しく小貝、長峰台、蛇沼、加養宿、五家千本木、金村の合戦など戦うこと数十度に及ぶ。
もとより要害堅固の城に、武勇の家柄とて、一ときたりとも敗戦の憂目を喫することはなかったが、天正2年縁戚にして盟主なる小田氏治が佐竹勢の為に土浦城が滅亡するに及び、翌天正2年(1575)9月猛将弟石毛次郎政重の城中頓死に相次ぎ、治親自身もまた10月下旬の一夜家臣の謀反に遭って毒殺のあいない最後を遂げ、始祖四郎将軍政幹以来520有余年に亘って栄えた常総の名家豊田氏も遂に戦国の露と消えたのである。
一説に、夫人及び二子は、真菰に身を包み小舟で武蔵草加に遁れたという。
爾来、城は20余年の間多賀谷重経、三経の居城となったが、慶長6年(1601)2月27日、父政経、徳川家康に追放されて廃城となった。
星霜、ここに370余年、土着の縁者数多しと雖も、城址は一面圃場に姿を変じ、不落の要害も河川の改修にその痕跡を断つ。
今はただに往時を偲ぶよすがとて、僅かに御代の宮、鎧八幡、将軍の宮、城地の字名に過ぎず。
全てはこれ天と地と太古悠久たる小貝川の流れが知るのみである。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
上宿・新宿方面

川の一里塚
上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。
上善は水の若し。
水は万物を善く利して、而も争わず。
衆人の悪む所に居る。
故に道に幾し。
※現地看板より

小貝川


城址碑

説明看板

中城北側堀跡

中城(主郭)跡
この地は常総の山野に君臨した名門豊田氏の城跡である。12代善基は、この地一帯に築城して本拠地となし、若宮戸に祈願寺として開基した龍心寺を現在地に建立し隆盛を誇った。やがて戦国乱世の弱肉強食の時代に至り、新興勢力多賀谷氏の南侵激しく豊田領は風雲急を告げた。

しかし豊田城は堅固であり尋常の攻めでは手中に落ちず、多賀谷は偽って和睦を申し入れ、重臣の白井全洞に金村雷神宮百ヶ日参詣を命じた。社参した全洞は、雷神宮境内に於て豊田老臣飯見大膳を待受け、言葉巧みに近づき茶の接待を受け、大膳の息女を孫嫁に申し入れて親族の盃を交わし、豊田側不利を説き、寝返りの腹をさぐった。主家の衰微ゆく様を憂い、身の行末を案じていた飯見大膳は、白井全洞の「城主治親を討って返り忠すれば豊田城を分与する」との甘言に乗り、主君虐殺を決意し天正3年9月、13夜の月見の宴に事よせて主君治親を毒殺せんと私宅に招請した。

豊田氏の守護神金村雷神宮は、吉凶の変事ある場合は必ず鳴動があるといわれ、折も折奥殿に震動が起り、宮司の「凶事の起る恐れあり」との具申があった。まもなく石毛城より城主政重頓死の知らせがあり、月見の宴は中止となったが再び10月下旬に入り、大膳は策をめぐらし私宅にて茶会を催した。治親夫人は、不吉な予感による胸さわぎのため出向くことをとどまる様懇願したが、「飯見は我が家臣なり、別心あるべからず」と一笑に付し、家臣少数を従え大膳宅におもむき、毒酒を盛られて悲運の最期を遂げ、豊田城は逆臣により乗っ取られた。

豊田の遺臣は石毛城に拠り抗戦するも、逆臣の身柄引き渡しと次郎政重の遺児七歳の太郎正家の助命を条件に下妻に降った。多賀谷政経は大膳を呼び出し、縄掛けて豊田・石毛勢に引き渡した。豊田・石毛勢は大膳を裸身で金村台に連れ出し、主殺しの大罪人として金村郷士草間伝三郎の造った竹鋸を以って挽き割り、大膳一族36人の首をはね主君の無念を晴らした。落城以来ここに400余年、豊田城の跡地一帯も、農魂たくましい先達の努力により、今整然と区画され、田畑が拓かれた。

かつてこの地は排水状況が悪く、一旦豪雨に見舞われるときびしい災害を受けることもしばしばで、対策に苦慮していた。昭和41年、熱意ある関係者により、中城土地改良推進協議会が結成され同年6月事業認可申請提出、同年7月認可、同年11月工事着手、昭和42年3月完了した。工事完了によって農業近代化の基盤が確立され、土地改良事業に先駆的な役割を果たした努力は見逃すことのできぬ功績である。これらは偏に事業推進にあてられた役員はじめ、地権者のたゆまぬ努力と総意が結集されて完成されたものであり、ここに関係者の業績をたたえ、先人累年の遺業をしのび、工事竣工の喜びを後世に伝えるものである。
※現地石碑より

御門内東

常総市地域交流センター

案内看板



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