城郭DATA -CASTLE DATA- 
| ヨミカナ | カシワギジョウ |
| 別称 | 柏木ノ森ノ塁、大塩の城 |
| スタンプ設置場所 | - |
| 曲輪配置 | 連郭式 |
| 城郭種類 | 山城 |
| 築城者 | 蘆名盛隆 |
| 築城年 | 1584年 |
| 廃城年 | 1589年 |
| 主な城主 | 蘆名氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 512.4 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | なし |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡柏木城跡 |
| 駐車場 | 付近に駐車場なし |
| 最寄り駅 | JR 喜多方駅 |

概要・現地案内板
柏木城跡は会津盆地北緑・標高512m丘陵上に所在し、天正13(1585)年、桧原に侵攻した米沢の伊達氏に対抗するため、会津の蘆名氏により整備された戦国時代の山城です。
城域は東西500m・南北450mにおよび遺構の残りが良く、石積を多用することや複雑な虎口を有するなど、戦国期の最新技術を採用していることが確認されています。
主郭曲輪群の区画や虎口・通路の壁内側に多用された石積からは家臣・旗下・領民への示威行為等の具体像を知ることができます。
迫り来る伊達政宗勢を迎撃するため地形を活かして配した曲輪群は、当時の南東北における蘆名氏・伊達氏という二大勢力の抗争を具体的に示す遺構です。
また、城内に会津と米沢を結ぶ道を取り組み城に「関所」的な意味合いを持たせたとみられることからは、領国境目における軍事拠点のあり方の一端を知ることができます。
※現地説明板より
城犬のおいど 攻城記録
見学者用駐車場
活性化センターにある駐車場と説明板。

登城ルート

説明板
柏木城跡は、戦国時代の天正12年頃(1584)、勢いを持ちつつあった米沢の伊達氏への備えとし領国境を護るため、会津の蘆名氏により造られた山城です。随所に「石積み」による多様な施設を見ることができ、当時の会津における築城技術を結集して城を築いたと考えられます。廃城は、摺上の合戦で蘆名氏が伊達氏に敗れる天正17年頃から数年の内に行われた可能性が高く、

他の武将による城の改修が考えにくいと予想されることから、蘆名氏の築城技術の到達点を知る貴重な遺跡と言えます。江戸時代の文献『会津旧事雑考』や『会津要害録』には「柏木の森城」、「柏木ノ森ノ塁」などと呼ばれており、当時から大塩の里山の森に築かれた城跡として知られていたようです。雑木林と植林されたスギの森のなかにたたずむ、歴史と森林環境学習の場として、長く将来に伝えていきたいものです。
※現地説明板より

平場2

帯曲輪

虎口3

曲輪3


堀切2


曲輪2


土橋

主廓(曲輪1)区画A
柏木城跡は、会津盆地北縁を望む標高512mの丘陵上に立地する、戦国時代に蘆名氏によって築かれた城跡である。城跡の北側には奥州会津と羽州長井・米沢を結ぶ米沢街道が走る。城が所在する大塩は米沢に本拠を置く伊達氏による会津侵攻に対する防衛拠点であったことが知られ、天正13年(1585)の伊達政宗の会津侵攻の際、

蘆名軍が立て籠もったこと、天正17年には大塩の城の動向などが「政宗記」に見える。柏木城跡は東西500m、南北450mの広大な城域を有する。その縄張りの特徴は、米沢街道を強く意識していることであり、米沢街道に面する城の北側斜面には、大規模な曲輪群を配し、また米沢街道から分岐し城の南側を通過する道路を、堀を伴う石積の土塁によって200mにわたって遮断している。

このことは、この城が米沢街道を南下する伊達軍への備えとして機能していたことをうかがわせる。一方、石積を多用することや、複雑な形状の虎口を有するなど、戦国期の最新の技術を採用していることも確認されている。蘆名氏、伊達氏といった戦国期における南東北の二大勢力の抗争を具体的に示す城跡として重要であるだけでなく、当時の築城技術や防御思想などを知る上で重要である。
※説明板より

主廓(曲輪1)区画C
このあたりの発掘調査では、掘立建物跡が確認されています。主郭区画Aでの調査結果とともに、区画Cにも建物があったことがわかり、主郭内での建物配置の手がかりが得られました。
※現地説明板より


主曲輪櫓台
虎口2から上がると、いよいよ柏木城跡の主郭です。主郭は土塁などにより3分割され、区画A・区画B・区画Cと呼ばれます。土塁や段差には石積が施されており、主郭の威儀を整えているかのようです。現在位置には区画C外側の土塁があり、上には一部広くなっていることから「櫓台」と呼ばれる箇所があります。

石積は大部分が崩れていましたが、上に石積があり、下には2列の石列がおかれ、階段状にして高さを確保しています。
※現地説明板より


主郭曲輪群北出入口(虎口2)
虎口2は、主郭に隣接する出入口で、壁に囲まれた空間を有する“桝形”タイプの虎口です。発掘調査の結果、通路壁や、内部の一部に石積が施されていること、外部への通路には土が約1m近く堆積しており、当時の路面はかなり低かったことなどがわかっています。

積石や土台が大きく崩れていることについては、城の廃絶時に人為的におこなわれたとする説(破城)もありますが、詳細はわかっていません。
※現地説明板より

馬出曲輪群への出入口
約10mの幅がある堀切1を挟んで、東側に馬出と曲輪4があります。堀切は南北方向に設けられ、東からの敵侵入を遮断する役割を果たします。通常は木橋などが架けられ行き来が確保されていたものと想定されています。

「馬出」とは城の出入口の形態の一種であり、出入口空間の平場を土塁と堀で囲んで味方の安全を確保し、土塁・堀の切れ目に出入口を設けたものです。曲輪4は敵が来る東方向に張り出し、先端近くで北側の竪堀1・堀切5、南側の竪堀2・堀切4などを土塁とともに眼下にすることができ、見張り・守備の面で防御の要となっています。伊達家の記録(右)に記された「堅固」な城の姿の一端を、今も目にすることができます。
※現地説明板より

堀切1

馬出

帯曲輪1区画施設(弧状石積)
ここは、大手道(帯曲輪南・東通路)の隅を石垣で区画しています。従来から、武器庫(矢倉)、見張り場所(櫓)、蔵、宗教施設、馬屋など、様々な意見が出される謎の空間でした。一部を発掘したところ、東の土塁の壁にも石積があり、石積で周囲を囲われた空間であることや、出入口があること、弧状石積には一部に比較的大きな築石を使用していること、などがわかりました。

しかし区画内では目立つ遺構は確認できずその性格を推定することはかないませんでした。
※現地解説版より

帯曲輪1南通路

大手道土塁の石積
大手道(帯曲輪南・東通路)の南土塁に配された石積は、平成27年度の発掘調査により初めて確認されました。その後も大手道沿いの土塁において、試堀坑数か所で同様に石積が確認されたことや、土塁上に列状に配されているように見えていたものが石積の上の部分であることなどが確認され、

虎口1から虎口2へといたる道の土塁の壁として、約200mにわたり石積が施されていると思われます。登城する者は近在にない石造りの城構えに驚き、葦名氏の武威を強く感じることとなったのではないか、と推察されます。
※現地説明板より


太平石(鏡石)

平場2

南の谷と水路
柏木城跡主郭曲輪群の南側にある谷は、現在は水田・畑となっていますが、耕地整理前は底が湿地状の谷であったといいます。これを防御施設として取り込み、南からの軍勢の侵入を容易でないものとしています。谷を流れる水は西側で一本の水路となり、北へ流れ下ります。

柏木城跡の西を画するラインは、この水路と考えられています。
※現地説明板より

2025/5最終訪問
城郭周辺地図
付近に駐車場なし
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