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武蔵国 石神井城 [ SYAKUJII CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナシャクジイジョウ
別称なし
スタンプ設置場所
曲輪配置連郭式
城郭種類平山城
築城者豊島氏
築城年鎌倉時代
廃城年1477年
主な城主豊島氏
指定史跡都指定
標高48.6 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構あり
現状石神井氷川神社、石神井公園
駐車場近隣の有料駐車場
最寄り駅西武鉄道 石神井公園駅


概要・現地案内板

石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。
豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父源平氏で、鎌倉時代の末には、石神井郷を領有していました。
室町時代に、城主の豊島奉経は、武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。
そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正の重臣の太田道灌は、文明9年(1477)4月、この城に泰経を攻めて、これを落としました。 
石神井城は、中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い立陵の上にあって、その周囲は空堀や土囲でめぐらされていました。
今でも空掘のあとの一部を見ることができますが、落城によって照姫が水中に身を投げたという伝説など数々の哀れな物語を秘めています。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


石神井氷川神社


玉祓


石神井城の中心内郭跡


石神井城は、平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つです。城の築城は、鎌倉時代後期と考えられ、文明9年(1477)4月28日に太田道灘に攻められ落城し、廃城になりました。

「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経(やすつね)は、石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の1月25日、再び道灌に攻められ小机城 (横浜市)に逃げています。その後の泰経の足どりは、記録として文献には残っていません。
城は、石神井川と三宝寺池に挟まれた台地に築かれており、全体では九ヘクタール前後の規模であったと推定されています。

当時の城は、土塁と壕で土地を四角形に区画した場所(郭)をいくつか築き、防御施設としていました。例えば、城の東側は、ここより約100m程の場所に幅7m程の壕で区画されていたと考えられ、西側
は、ここより約220m程の場所に幅9m程の壕と土塁で区画されていました。また、北側と南側は、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。

この場所は、本城の中心となる郭で、土塁と壕が良く残っています。昭和42年の発掘調査では、次のような規模の郭であることがわかりました。
 空壕 上幅11.6メートル
    底幅 3メートル
    深さ6.1メートル
 土塁 基底幅 12.3メートル
    現在高 12.3メートル
(築城当時の高さ推定4.5メートル)

また、内部は平坦であり、陶磁器片、かわらけ (素焼土器)、鉄釘なども出土しており、何らかの建物があったと考えられます。
この地域は、右のように壕と土塁が良く残っている大切な揚所です。少しでも永くこの状態が残せる様、皆様のご協力をお願い致します。
※現地看板より

2025/6最終訪問


城郭周辺地図

東京都練馬区石神井台

近隣の有料駐車場


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