城郭DATA -CASTLE DATA- 
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ヨミカナ | ミノワジョウ |
| 別称 | なし |
| スタンプ設置場所 | 箕郷支所受付 08:30-17:15(土日定休) 箕郷矢原宿カフェ 10:00-16:00(月定休) |
| 曲輪配置 | 梯郭式 |
| 城郭種類 | 平山城 |
| 築城者 | 長野業尚 |
| 築城年 | 1512年 |
| 廃城年 | 1598年 |
| 主な城主 | 長野氏、内藤氏、北条氏、滝川氏、井伊氏 |
| 指定史跡 | 国指定 |
| 標高 | 280.2 m |
| 城址碑 | あり |
| 案内板 | あり |
| 現存建造物 | なし |
| 復元建造物 | あり |
| 遺構 | あり |
| 現状 | 史跡箕輪城址 |
| 駐車場 | 箕輪城跡駐車場(無料) |
| 最寄り駅 | JR 群馬総社駅 |

概要・現地案内板
歴史
箕輪城は、明応、永正年間(1492~1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。
長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にして互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山の内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。
特に、長野信濃守業政は、弘治年間(1555~8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り将兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は 春風にうめも桜も散りはてて 名のみぞ残る箕輪の山里
という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。
長野氏の在城は60余年でる。
武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。
天正18(1590)年、北条氏滅亡後徳川家康は、重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後、慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。
構造
箕輪城跡の標高は270メートル、面積は47ヘクタールに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼、東と北とは水堀を回らして守りを固めている。
城は深さ十数メートルに及ぶ大堀切で南北に二分され、さらに西北から東南の中心線に沿って深く広い空堀に隔てられた多くの郭が配置されている。
御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸や祭戸堰用水によって城の用水は完備していた。
殊に法峯寺郭は、江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどにすぐれた用水である。
6ヶ所の「馬出し」や櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。
※現地本丸石碑より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場(搦手側)


搦手口
搦手口は、城の大手口(追手)に対し、裏口に当たる。ここにも「馬出し」があった。長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から考え、ここが大手口であって、城の南方に城下町が構成された井伊氏時代に大手口が南面に設けられてから、ここが搦手口となったといわれている。
※現地説明石板より


木俣跡
ここは木俣と呼ばれる曲輪で、家臣団の屋敷地の一つと思われます。2003年度の発掘調査で以下のことが分かりました。①木俣外周を南北方向に囲う2本の堀は、元々さらに北西へ続いていましたが、郭馬出西虎口門が造られた頃に一部が埋められ、現在のような平場になったことが判明しました。

②築城前、木俣と郭馬出は現在より高低差がありましたが、城の改修で造成され、現在の地形になったことが分かりました。③等間隔(180㎝)で柱穴の並ぶ箇所があり、少なくとも3棟の掘立柱建物があったことが明らかになりました。
※現地説明板より

郭馬出西虎口門
2002年度の発掘調査によって、郭馬出西側の出入口(虎口)部分で井伊氏の時代(16世紀末)の城門の柱の
礎石が8石確認されました。 この虎口は本丸への登城ルートのうち、城南側からの2ルートが集約される防御上きわめて重要な場所となっています。

そのため、検出された箕輪城の城門の中では最大規模(幅5.73m、奥行3.48m)を誇り、箕輪城を象徴
する城門の一つであったと想定されます。 礎石の配置等から2階建ての櫓門と推定されますが、近世城郭で一般的となる瓦葺きではなく、板葺きであることが、中世から近世への過渡期の特徴を示しています。 礎石がすべて残っていた好条件に加えて、さらに各地に現存している近世初期の城門を参考にすることによって、門の建物構造を推定できました。

2011年度からの文化庁の専門委員会での審議を経て、2014年度から2か年かけて、伝統的工法に基づき復元工事を行いました。 なお、この門は、関ケ原の戦い(1600年)以前の城郭
で復元された城門の中では、全国最大規模になります。
※現地説明板より

郭馬出
郭馬出しは、50メートル×30メートル程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出る所である。このような大形の馬出しを「郭馬出」という。高崎城の梅木郭は、この郭馬出しを手本としたものであろう。
※現地説明石板より

大堀切の土橋
大堀切を渡る唯一の土橋です。2001・2010年度の発掘調査の結果、数時期にわたる変遷が確認され、城最終時までに土橋の南西側の裾に石垣を築くなどの改修が行われ、廃城を迎えていることが明らかになりました。2014年度に城最終時の土橋の形状に復元しています。廃城後に削られた石垣は地下に保存し、その上に、新たに石垣を復元しました。
※現地説明板より


大堀切
この大堀切によって城は南北に二つに区切られ中央にある土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭」の城という。 土橋の南には見事な郭馬出しが構えられ出撃の気勢を見せている。
※現地説明石板より


蔵屋敷
この上の曲輪が蔵屋敷です。蔵屋敷は備蓄穀物を保管する建物のあった場所だと考えられますが、一説によると、いわゆる「辻馬出」の機能を併せ持ち、ここから三の丸、通仲曲輪、鍛冶曲輪北方へ出撃するための拠点であったと推定されています。
※現地看板より

三の丸
1999・2000年の発掘調査によって三の丸では3時期の変遷が確認されました。1期(15世紀末頃~16世紀中頃、
長野・武田時代頃)は屋敷地、2期(16世紀後半、北条時代頃)に釘などを作る鍛冶場として利用された後、3期(16世紀末、井伊時代頃)には南西側に厚さ2.4m以上もの盛土を行い、三の丸の石垣を築いています。

調査箇所北端部分は、虎韜門から鍛冶曲輪を経て本丸へ登るルートの途中になります。ここでは両側に石垣を伴う幅5.7mの通路跡(3期)が確認されました。通路は石垣に径1m程度の大石も使われた立派なものでしたが、廃城後に石垣は大きく崩されています。
※現地説明板より

三の丸の石垣
追手門から本丸へ至る大手ルートを固めている井伊時代に使われていた石垣です。1999年の発掘調査で基部が1m埋まっていることが確認され、当時の高さは4.1mにも及んだことが明らかになりました。城内では最も高く、関ケ原の戦い(1600年)以前の関東地方の城郭でも有数の規模です。

河原石を用いた野面積みで、一人では運べない大きめの石を用いています。この石垣の背後(下層)では、最高1.3mほどの高さで、人頭大の河原石を階段状に積んだ古い石垣が見つかっています。同様の特徴を持つ石垣は、埼玉県寄居町の鉢形城跡でも確認されました。当時、鉢形の城主は北条氏邦で、箕輪の城主も兼任しており、技術が共有されたためと考えられます。
※現地説明板より

二の丸跡
二の丸は縦横各八十メートル程の郭で、本丸が持久防御のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。
※現地説明石板より


日本100名城スタンプ

日本100名城スタンプが押印された紙が入っています。


本丸跡
本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100メートル、東西約70メートル、東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪の東側まで続いていることにより、御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができよう。

本丸と御前曲輪の間の空堀は東部が浅く西部が深く、西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通壕であったが、後に掘り下げられてそのはたらきを失ったらしい。南の本丸の虎口(出入口)には前に「曲尺馬出し」がつき、本丸南部が突き出して虎口前を側面から防ぐようになっている。
※現地説明石板より

城址碑



御前曲輪
この郭は本質的には本丸の一部であって、落城の際、城主はここの持佛堂に入って自刃し、一族郎党みなあとを追ったと伝えられているように箕輪城の精神的中心であった。いわば天守郭が本丸の同一平面に設けられたとも考えられる所である。昭和2年に発見された井戸からは多数の五輪塔などの墓石が発見された。西南隅には櫓があったと思われ、壕内には石垣が残っている。
※現地説明石板より

御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。天守閣はなかった。 落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。井戸は昭和2年に発見されたものである。
※現地看板より


井戸
昭和2(1927)年8月15日、豪雨のため一部地盤が沈下したのがきっかけで古井戸が確認されました。 深さは20mで、底から長野氏累代の墓石が多数掘り出されました。
※現地看板より

御前曲輪西虎口門跡
御前曲輪の出入口(虎口)です。御前曲輪西側の堀に架かっていた木橋を渡り、この虎口を出入りしました。 2005年の発掘調査では、ここから間口・奥行ともに3.1mの門跡が確認されました。6つの礎石が全て残り、主柱2本を4本の控柱で支える四脚門と考えられます。

門の雨落溝には156個の石塔の部材が用いられています
。これらを整然と並べ拡張高く整備された門です。
※現地説明板より


本丸堀の橋台
本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で堀はここで狭くなっている。
南側に石垣が昔のまま残っている。
※現地説明石板より




大手尾根筋


丸戸張


大手門跡
ここは井伊氏時代の大手口(追手)である。門の前には、「丸戸張」という郭馬出しが構えられ、その外を広小路といった。大手口は間口約11メートル、奥行4.4メートルの櫓門で、後に高崎に移されて槻木門となり、柱に「文禄4年未正法作」と刻んであったという。文禄4年は1595年である。
※現地説明石板より


箕郷矢原カフェ
日本100名城スタンプ設置場所
住所:高崎市箕郷町矢原1650
時間:10:00~16:00
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)


2022/5最終訪問
城郭周辺地図
群馬県高崎市箕郷町東明屋
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