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美濃国 苗木城 [ NAEGI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナナエギジョウ
別称霞ヶ城、赤壁城、高森城
スタンプ設置場所苗木遠山史料館 09:30-17:00
曲輪配置梯郭式
城郭種類山城
築城者遠山直廉
築城年天文年間
廃城年1871 年
主な城主遠山氏、森氏、川尻氏
指定史跡国指定
標高429.3 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物風吹門(展示)
復元建造物なし
遺構石垣、空堀
現状史跡苗木城址
駐車場A1駐車場
最寄り駅JR東海中央本線 JR中津川駅


概要・現地案内板

苗木城は中津川市内を東西に貫流する木曽川の右岸に一段と高くそびえる城山に築かれていました。
木曽川から山頂の天守跡までの標高差は約170mあります。
岩山の上で利用できる土地の確保が困難であったため、建物の構築方法に懸造(かけづくり)が使われているなど、自然の地形を有効に生かして築かれた山城です。
大永年間(16世紀前期)に苗木の北方にある植苗木(うわなぎ)を拠点としていた遠山氏がこの他に移り住みました。
その後戦国の動乱の中で遠山氏は苗木城を追われますが、関ヶ原の戦いに先立ち遠山友政が城を奪還し、以後江戸時代を通じ12代にわたり遠山氏が城主として治めました。
※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


大手門跡


苗木城の正門です。ここから四十八曲りを通って城内へと至ります。
※現地看板より

城坂四十八曲り道


城山の麓にあった大手門から本丸までの登城道で、距離は約600m、標高差約150mを一挙に登る急峻な道です。領主の参勤交代などにはこの道が使われていました。本丸まで道が48回折れ曲がっていることから、その名が付けられたともいわれています。
※現地説明板より

駐車場


竹門跡


足軽長屋跡


竹門すぐ西側の上段の平地には、表方の足軽が出勤した時に必ず立ち寄る足軽長屋がありました。足軽達はまずこの長屋に立ち寄り、その後城内のそれぞれの係り役所へと出向きました。ここには小頭部屋、稽古場など、三・四棟の建物がありました。
※現地説明板より

龍王院跡


足軽長屋の南側隣地に「光耀山金厳寺龍王院」という領主遠山家の祈祷所があった。真言宗の寺院であったが、明治維新の廃仏毀釈運動にて神職が支配するところとなった。
※現地説明板より

風吹門跡


2階が「飼葉蔵」として使われていた風吹門は大手門とも呼ばれ、城下から三の丸への出入り口でした。門の南側に門番所が併置され、昼夜を問わず人の通行を監視していました。城主の在城の時は開門していましたが、江戸詰で留守の時は締め切られ、潜り戸が利用されていました。
※現地説明板より

大矢倉跡


大矢倉は、17世紀中頃に造られました。石垣を高く築き立て、二間(約4m)、三間(約6m)程の3階建てで、苗木城で最も大きな櫓でした。1階は三方を石垣で囲われ、倉庫として使われていました。また、2階、3階の壁には矢狭間が設けられており、北側の防御の役割がありました。
※現地説明板より

北門跡


城の外郭にあった土塀付きの門で門番はいませんでした。城の入り口にある風吹門からみて、北側にあたる門であることから、その名前がついています。ここから先、東側に下ると木曽川に、また北側の道は家臣の屋敷群に行くことができました。北門の脇にある池は、雨水が頼りの貯水池で馬の飲み水に利用されていた。
※現地説明板より

大門跡


苗木城の中で一番大きな大門は、2階建てで、三の丸と二の丸とを仕切っていました。門の幅は二間半(約5m)程で2階部分は物置に利用されていました。領主の江戸参勤の出立時などの大きな行事以外は開けず、普段は潜り戸を通行していました。
※現地説明板より

御朱印蔵跡


切石できっちりと積まれた石垣の上に建てられていた御朱印蔵には、将軍家から代々与えられた領知目録や朱印状など重要な文書や刀剣類が納められていた。これらの収蔵品の虫干しは、年に一度必ず行われ、蔵への出入りには梯子が使用されていました。
※現地説明板より

綿蔵門跡


本丸へ上る道をさえぎる形で建っていた綿蔵門は、夕方七ツ時(午後4時)以降は扉が閉められ、本丸には進むことができませんでした。年貢として納められた真綿が、門の2階に保管されていたことが名前の由来となっています。
※現地説明板より

坂下門跡


この門は、礎石と手前の石段が、現在でも状態よく残されています。坂道の下にあったので、坂下門とよばれています。また、別名を久世門といい、これは三代領主友貞の奥方の実家で、苗木城改修の際に力添えをした徳川家譜代の名家、久世家の名からきていると伝えられています。
※現地説明板より

菱櫓門跡


具足蔵跡


本丸口門から見て右側の崖上にあり、2間3尺、3間の建物である。ここには領主の具足や旗が保管され、別名旗蔵とも呼ばれていた。
※現地説明板より

武器蔵跡


長さ8間(約16m)、奥行3間(約6m)の土蔵。建物の長さから別名八間蔵といわれ、大名遠山家が所持していた鉄砲や弓等の武器類が納められていた。現在は一部建物土台が崩壊しているが、礎石や縁石が往時のまま残されている。
※現地説明板より

玄関口門跡


玄関口という名のとおり、この門を抜けていくルートが、天守への正式な道でした。この門の先には土廊下の建物が続いており、奥は小屋とつながっていました。通常は鍵が掛けられていて、ここから中に入ることは禁じられていて、鍵は目付役が管理していました。
※現地説明板より

本丸玄関跡


本丸玄関は、天守台より一段低い位置にありました。そのため玄関を入ると、苗木城の特徴の一つである掛け造りの千畳敷を通り、回り込むようにして南東側から天守台へ入りました。玄関には玉石が敷かれていたことが絵図に描かれており、整備前の調査でも、多くの玉石が確認されました。この石敷きはその玉石を利用して復元したものです。玄関の右側にある巨岩には柱穴があり、この巨岩にはみ出す形で建物(絵図の居間の部分)が建てられていました。
※現地説明板より

本丸跡


木曽川を天然の堀とした苗木城の本丸は、巨岩重なる岩山である高森山の山頂部(432m)一帯にあり、眼下の木曽川から約170mの比高差があります。ここからの眺望はすばらしく、正面にはかつての中山道中津川宿の街並とその背後に恵那山(2191m)が一際高く聳えています。右側は根の上高原がある保古山(970m)に連なり、左側には木曽山系の山並みと東山道の神坂峠を望むことができます。
※現地説明板より

天守展望台


苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。1階部分の名称は「天守緑下」、板緑を入れて4m×5m(2間×2間半)の広さで、岩の南西側隅にありました。2階は「玉蔵」と呼ばれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6m×6m(三間四方)でした。ここには1階と3階に通じる階段が設けられていました。

3階の「天守」は巨岩の上にあり、9m×11m(4間半×5間半)の大きさでした。この巨岩の上の柱と梁組みは、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用いたしました。苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できます。
※現地説明板より

馬洗岩


天守台跡の南下にあるこの大きな岩は、馬洗岩と呼ばれています。絵図に「この石廻り二十三間弐尺」とあり、周囲45m程の花崗岩質の自然石です。かつて苗木城が敵に攻められ、水の手を切られた時に、この岩の上に馬を乗せ、米で馬を洗い水が豊富であるかのように敵を欺いたことが名前の由来となっています。
※現地説明板より

笠置矢倉跡


本丸からみて西側にある矢倉で、通常は何も置かれていませんでした。矢倉は、3層の懸造りで巨岩の上に建てられていました。ここからの眺望は良く、笠置山が正面に見えることから「笠置矢倉」と呼ばれています。
※現地説明板より

本丸口門跡


千石井戸の西側にある本丸口門は、本丸と二の丸の境となる門で、総欅で建てられていたことから、欅門とも呼ばれていました。

千石井戸跡


苗木城内の井戸で一番高い場所に位置するこの井戸は、高所にもかかわらず、どんな日照りでも水が枯れることがなかったと伝えられており、千人の用を達するということから千石井戸と名付けられています。

的場跡


仕切門跡


城の二の丸から本丸に至る南側の登り道には、崖沿いに石垣が築かれ、塀が設けられていた。この仕切門の仕切の意味は二の丸と本丸との境を意味し、この先は本丸である。門は屋根付きの2間、4間半の建物で、門の右側は小屋(物置)として利用されていた。
※現地説明板より

帯郭跡


天守を取り囲む細長い平地です。

物見矢倉跡


物見矢倉は、木曽川に面した崖の上に建物がありました。一部2階建ての四間(約8m)、六間(約12m)程の建物で、「徒士具足蔵」と「物置」の2部屋がありました。ここからの眺望は素晴らしく、前方には、恵那山に連なる山々や山麓に広がる中津川市街地を見渡すことができます。
※現地説明板より

須磨明石


八大竜王大神


遠山家の守り神で、明治時代に現在の場所に祀られるようになりました。

清水門跡


門の北側にある大岩の下から清水が湧き出ており、どんな時でも枯れることがないといわれています。絵図には桶が描かれており、清水を用水として利用していたことがわかります。巨岩の合間に安置されている祠は、八大竜王社で明治以降にこの場所に移設されました。
※現地説明板より

不明門跡


一段と低い所にあった2階建ての門で、2階部分は物置に使用されていました。幅一間(約2m)程の通用口の両側の壁は石垣でできており、高さは最大で3.2mありました。普段は締め切られ、忍びの門であるといわれていましたが、現在、門から外につながる道は確認できていません。
※現地説明板より

的場跡


苗木城には、弓の稽古場としての的場が本丸と二の丸に設けられていた。二の丸にあるこの的場は、領主居間の南側、一段と低い所にあった。的場の敷地は長さ30m、幅15m程で、剣、槍、鉄砲の稽古も行われていた。残っている的の土塁は長さ3m高さ1m程で、右側は石垣、左側と奥は土塀で囲われていた。
※現地説明板より

牢屋跡


苗木城には一つの牢屋しかなく、三の丸と二の丸を区切る大門の左側奥にある。建物の規模は、2間、4間ほどの大きさで、日のあまり当たらない大きな岩の上に建てられいた。明治初期頃に起きた苗木藩の政争の際には、多くの上層武士たちが、この牢屋に収監され、処断された事件がおきている。
※現地説明板より

駈門跡


竹門跡


竹門という名前の門は、苗木城に2か所あった。いずれも城の外、外郭部にあり、二脚の門である。名の由来は、扉が竹で作られていたことからきていて、門番がいなかった。木曽川からの登城道がある四十八曲り道は、この門の手前から右折していくが、門をくぐって真っすぐ進んでも、城内に通じていた。
※現地説明板より

苗木遠山資料館


日本100名城のスタンプはこちらに設置されています。

風吹門


江戸時代中期まで宿場の中心にあったという大泉寺に残されていた苗木城三の丸入口にあった風吹門の門扉。

2023/11最終訪問


城郭周辺地図

岐阜県中津川市苗木


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