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駿河国 興国寺城 [ KOUKOKUJI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナコウコクジジョウ
別称高国寺城・根古屋城・杜若城・久窪城・深田山城
スタンプ設置場所穂見神社境内 365日24時間
沼津市文化財センター 09:00-17:00(土日定休)
浮島地区センター 09:00-21:00(月定休) 
曲輪配置連郭式
城郭種類平山城
築城者北条早雲
築城年15世紀
廃城年1607年
主な城主後北条氏、武田氏、松平氏、中村氏、天野氏
指定史跡国指定
標高31.9 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構石垣、土塁、空堀
現状史跡興国寺城跡
駐車場興国寺城駐車場
最寄り駅JR東海道本線 原駅


概要・現地案内板

興国寺城は、戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です。
早雲ははじめ伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績によりこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移り、戦国大名へと成長しました。
その後、興国寺城は、駿河・甲斐・伊豆の境目に位置していたために、今川・武田・後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わりました。
天文年間に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、地域を拡大しました。永禄年間には駿河に侵入した後北条氏の城となり、武田信玄の攻撃を退けました。
元亀年間の武田・後北条の同盟成立以降は武田方の城となり、武田一門穴山梅雪の持城となりました。
天正10年(1582)に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清が開城し、徳川方の城となり、家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将、中村一氏の家臣河毛重次が城主となりました。関が原の合戦後には、三河三奉行の一人で、「どちへんなしの三郎兵衛」と称された、天野三郎兵衛康景が城主となりましたが、康景の逐電により廃城となりました。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


駐車場


三の丸にある駐車場

本丸


高尾山穂見神社


根古屋の「力石」


この石は、根古屋出荷組合に置いてありました。明治・大正・昭和の初期頃まで村人が集まり肩までかついで力比べをした石です。重さは110kgあり丸くて持ちにくいのでかつげる人は少なかったそうです。
※現地看板より

北条早雲・天野康景の碑


続日本100名城スタンプ


いつでも押せるスタンプ

天守台石垣


天守台


大手道


本丸土塁


西櫓台


大空堀


三の丸


2024/11最終訪問


城郭周辺地図

静岡県沼津市根古屋


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