城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | スワハラジョウ |
別称 | 牧野城・牧野原城・扇城 |
スタンプ設置場所 | 諏訪原城ビジターセンター 10:00-16:00 |
曲輪配置 | 梯郭式 |
城郭種類 | 山城 |
築城者 | 馬場信春 |
築城年 | 1573年 |
廃城年 | 1590年 |
主な城主 | 今福氏、今川氏、松平氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 212.8 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | なし |
遺構 | 土塁、空堀、井戸 |
現状 | 史跡諏訪原城跡 |
駐車場 | 諏訪原城跡 第一・第二駐車場 |
最寄り駅 | JR東海道本線 金谷駅 |

概要・現地案内板
諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で見逃すことのできない重要な遺跡として国の史跡に指定されています。当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、東海道沿いの牧之原台地上に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと「甲陽軍鑑」等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、諏訪原城の名がついたと言われています。
諏訪原城は、大井川を境として、駿河から遠江に入る交通・軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城(静岡県掛川市)攻略のための陣城(攻めの城)として、攻略後は兵站基地(軍事作戦に必要な物質や人員の移動する城)としての役割を担いました。天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち、牧野城(牧之原城)と改名され、武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。
牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、「家忠日記」には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。
天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。
その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
諏訪原城ビジターセンター




大手南外堀


大手曲輪

大手北外堀
大手曲輪は、諏訪原城の台地側前面に方形に突出した曲輪で、その位置や構造から、最終段階の改修工事に際し、新たに付設されたと考えられる。大手曲輪は、大手北外堀と大手南外堀によってコの字型に囲まれ、古絵図では、西側前面に巨大な丸馬出と三日月堀が描かれている。この三日月堀の一部が、平成2(1990)年の発掘調査で確認され、その存在が証明された。

平成23(2011)年度、大手北外堀の発掘調査によって、断面形状が逆台形の箱堀であることが判明した。堀幅は、約5m、深さは大手曲輪側で約6mであった。惣曲輪側の堀の法面では、堀を掘削する段階で足場として使用されたと考えられる幅約50cmのテラス状の遺構が確認された。大手曲輪側では上面は削られてはいたが、堀を掘った残土(牧の原礫層)で構築された土塁を検出している。
※現地説明板より

諏訪原城跡碑

惣曲輪

番小屋


二の曲輪中馬出




二の曲輪北馬出

堀切


二の曲輪
諏訪原城は、本曲輪を扇の要にたとえ、扇状に曲輪が広がっているため、江戸時代には「扇城」と呼ばれることもあった。二の曲輪は、南北約315m、東西約75mの広さを誇る城内最大規模の曲輪である。平成22年度の調査で、二の曲輪中馬出との通路が土橋ではなく、通路中央部が途切れ「木橋」となることを確認した

虎口部分では、城門(間口約2.4m、奥行き約1.5m)の礎石(建物の土台となる石)4ヶ所を、曲輪内の調査では、外堀と平行する土塁の基底部(約20m)と土を突き固めた版築が確認されている。二の曲輪を南北に仕切る土塁は、西側に設けられた土塁との接点で幅約1m弱の大人一人が通れる程度の開口部が検出され、二の曲輪南北間を繋ぐ通路跡と推定される。
※現地説明板より


仕切土塁


本曲輪虎口

本曲輪
本曲輪は、主城戦において最終拠点となる最も重要な曲輪である。平成16年度から平成19年度にかけて実施した発掘調査で、焼土(焼けて赤黒くなった土)を挟んで上下二時代の遺構面(当時生活していた平坦面)を確認した。焼土より下の遺構面が武田氏時代のもので、上面が徳川氏時代と考えられる。

武田氏時代の遺構は、建物の柱穴(柱を建てるための穴)を、徳川氏時代の遺構は、本曲輪虎口部分で城門(間口約2.1m、奥行き約1.5m)の礎石(建物の土台となる石)4ヶ所を確認した。この虎口部分では、L字形に囲む枡形の土塁基底部を検出し、本曲輪を囲む東側土塁の上面平坦部で、建物の基礎(細長く連続した布基礎)と思われる遺構を確認した。本曲輪前面の内堀の規模は、堀幅約20m、深さ約10m、堀は逆台形の形に掘られた箱堀で、堀の底の幅は約6.75mであった。

また、北側斜面の平坦地も堀(横堀)であることが判明した。かわらけや鉄砲玉、炭化米や土壁の破片、瀬戸美濃で作られた丸椀などが出土している。
※現地説明板より



カンカン井戸


水の手曲輪

二の曲輪南馬出


二の曲輪東内馬出



二の曲輪東馬出
城域の南東端に配置された3ヶ所の小規模な馬出の中で、最南東端に位置し、諏訪原城の南東側防衛ラインの要の役割を担う曲輪でもあった。平成27年(2015)年度に、二の曲輪東馬出南側の外堀の発掘調査を実施し、断面の形状がV字型の薬研堀であることが判明した。堀幅は約9.3m、曲輪側の深さ約6.7mと、最南端を守るに十分な規模と評価される。曲輪内部に土塁の痕跡は認められず、小規模な曲輪面積の活用が土塁構築より優先された結果と思われる。

曲輪内では、礎石が確認された灰白土の整地面と、その下層の鉄砲玉が出土する黒色土の整地面の2時期を確認、上層が徳川氏、下層が武田氏段階と考えられる。曲輪出入口では、門礎石と推定される東西に並ぶ2ヶ所の礎石を検出した。東側が主柱、西側が控え柱と思われるが、対を成す礎石は、堀側(北)に存在することが推定されたが、後世の植林等による行為によって除去されてしまった可能性が高い。鉄砲玉と用途不明の銅製品が出土している。
※現地説明板より

諏訪神社

二の曲輪大手馬出




城郭周辺地図
静岡県島田市菊川
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