城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | スガヤヤカタ |
別称 | 菅谷城 |
スタンプ設置場所 | 埼玉県立嵐山史跡の博物館 09:00-16:30(月曜定休) |
曲輪配置 | 輪郭式 |
城郭種類 | 平城 |
築城者 | 畠山重忠 |
築城年 | 鎌倉時代 |
廃城年 | 不明 |
主な城主 | 畠山氏、太田氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 58.6 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | なし |
遺構 | 土塁、空堀 |
現状 | 史跡菅谷館跡 |
駐車場 | 埼玉県立嵐山史跡の博物館駐車場 |
最寄り駅 | 東武東上線 武蔵嵐山駅 |

概要・現地案内板
菅谷城跡は、鎌倉時代の有力御家人である畠山重忠が文治2年(1187)までには住居していたといわれる中世の重要な遺跡です。
元久2年(1205)、武蔵国二俣川の合戦の際、重忠はこの館から出発したことが鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に書かれています。
また、室町時代の漢詩文集「梅花無尽蔵」によると、長享2年(1488)に内山上杉氏と扇谷上杉氏が須賀谷原で戦い、死者700人、馬は数百匹が倒れたと記され、この菅谷城付近で激しい戦いがあったことを伝えています。
現在の遺構は、本郭、二ノ郭、三ノ郭などと、それらを防御する土塁、空堀などからなり、このような姿になったのは、戦国時代の事と考えられます。
昭和48年(1973)5月、関東の有力豪族である畠山氏の館に起源をもつ城館跡として国の史跡に指定され、平成20年(2008)3月には比企城館跡群菅谷館跡と名称が変更されました。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
埼玉県立嵐山史跡の博物館

スタンプ設置場所
続日本100名城スタンプはこちら。


二の丸
本郭の西側から北側を囲むように造られた平場があり、江戸時代から二ノ郭と呼ばれています。三ノ郭とは、高さが6mもある土塁と堀で隔てられています。目の前の道路は堀を埋めたもので、植栽の部分に土塁があったと考えられます。
※現地看板より



畠山重忠像

城址碑と看板




本郭
現存する菅谷館は戦国時代に整備拡張されました。畠山重忠の館もおそらく、この郭の中につくられたのでしょう。
※現地看板より




出桝形土塁
本郭は空堀と高い土塁によって守られています。さらに土塁にはこのような出桝形(凸状に突き出た箇所)がつくられていて敵軍の侵入が効果的に妨げるようになっています。
※現地看板より


案内板

三ノ郭
搦手門を入って東西に広がる平地が三ノ郭です。この広い郭は武士や騎馬の集合地として利用されていたのでしょう。
※現地看板より



蔀土塁
目の前にある小さな土塁は「蔀土塁」といいます。この土塁は、西ノ郭から三ノ郭内部の様子を直接見通せないようにつくられたものです。
※現地看板より

正坫門と木橋
ここは、三ノ郭の出入り口で正坫門とよばれ幅が約5間(9メートル)あります。発掘調査の結果、西ノ郭より約1メートル高く盛土していたことがわかりました。この盛土は、西ノ郭へ渡した木橋に傾斜をつけ、敵軍の侵入が困難となるよう工夫したものと思われます。

復元木橋
調査によって堀の中段から、木橋の橋脚を立てたと考えられる石積みが検出されましたが、現在ある橋はそれをもとに推定復元したものです。しかし、実際の橋がどのようなものであったかは、わかっていません。
※現地看板より

西ノ郭

南郭
この郭は本郭の南側に位置し、他の郭より一段低くなっています。今のところ、どのように利用されていたかは、よくわかっていません。
※現地看板より





本丸

2024/8最終訪問
城郭周辺地図
埼玉県嵐山町大字菅谷
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