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長篠設楽原 古戦場

天正3年(1575)5月21日、武田勝頼は、徳川家康によって奪われた長篠城を奪還するべく、約15000の兵を率いて出陣し、城を包囲しました。対する家康は、織田信長に援軍を依頼し、総勢38000の大軍で武田軍と三河国設楽原で対峙しました。武田軍の騎馬隊を馬防柵を築いて待ち受け、柵に近づくと鉄炮が放たれた。武田軍が突撃を繰り返すたびに死傷者の数が増えたが、土屋昌次をはじめ、馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、真田兄弟等が連合軍の堅い守りを突き崩し、必死に戦った。しかし、正午を過ぎるころになると、将兵の討死が次々と伝えられ、武田軍の敗色は明らかとなってきた。柵より討って出る連合軍に押され、後退を始めた。馬場信房は、勝頼を落ちのびさせようと、追手をくい止めたが、寒狭川付近でついに力尽きた。勝頼はわずかな兵に守られて退却していった。武田軍10,000人、連合軍5,000人が、この戦いで命を落としたと伝えられる。


長篠設楽原の戦い
交戦勢力織田・徳川連合軍武田軍
発生年月日1575年5月21日
場所愛知県新城市八束穂1062
参戦武将織田信長
徳川家康
酒井忠次
金森長近
武田勝頼
山県昌景
馬場信春
内藤昌秀
戦力38000~7200015000~25000

長篠設楽原古戦場関連施設

都道府県施設名住所施設詳細
愛知県設楽原歴史資料館新城市竹広字信玄原552営業時間:午前9時から午後5時(入場は午後4時30分まで)
愛知県長篠城址史跡保存館館新城市長篠市場22‐1営業時間:午前9時から午後5時まで(入館可能時間:午後4時30分まで)

馬防柵


天正三年(1575)新暦の7月9日、織田信長・徳川家康軍が、武田勝頼軍との設楽原決戦に備えて構築した「鉄砲構え」乾堀と馬防柵と銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えであった。古文書と時代考証による復原である。
※現地看板より

馬防柵の丸太は、信長が岐阜から設楽原へ兵士に一本ずつ持ち運ばせたとされています。


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