城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | キサイジョウ |
別称 | 私市城、根古屋城 |
スタンプ設置場所 | |
曲輪配置 | 連郭式 |
城郭種類 | 平城 |
築城者 | 小田助三郎、松平康重 |
築城年 | 1455年 |
廃城年 | 1632年 |
主な城主 | 小田氏、松平氏 |
指定史跡 | なし/不明 |
標高 | 10.8 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | 模擬天守風建物 |
遺構 | 土塁、空堀 |
現状 | 田畑 |
駐車場 | 騎西図書館駐車場 |
最寄り駅 | 東武伊勢崎線 加須駅 |

概要・現地案内板
騎西(私市)城は、いつ誰の手による築城かは不明だが、康正元年(1455)、上杉・長尾・庁鼻和氏等が守る城を、古河公方足利成氏が攻略したのが初見である。
永禄6年(1563)には、小田助三郎が守る騎西城を上杉輝虎(謙信)が攻め落としている。
徳川家康が関東に入った天正18年(1590)、松平康重が二万石で城主となる。
康重は大英寺(騎西)を開基し、保寧寺(日出安)に寺領を与えている。
その後、大久保忠常・忠職父子が城主となり、玉敷神社を現在地に遷座するなど、城下町騎西の再編を行った。
寛永9年(1632)、忠職の美濃国加納城(岐阜県岐阜市)移封に伴い騎西城は廃城となった。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
土塁跡
江戸初期の絵図を見ると、東に大手門を配し、二つの曲輪・天神曲輪・馬屋曲輪・二の丸と鉤の手状に構成され、本城(本丸)へ容易に攻め込まれないような構造となっている。さらに押し寄せる軍勢や弓矢・弾丸に対し、防波堤となるべく土塁が大手から本城までの全周を、延々と巡っていたことがわかる。

寛永9年(1632)に廃城となった後の衰亡は著しく、寛保年間(1741~44)には本丸・二の丸の土塁が崩され、安政年間(1845~60)に至ると城跡の竹林が開墾され、江戸末期にはほとんど畑となった。明治・大正期には県道が城跡を貫通した後の土塁はいっそう小さくなり、昭和40年頃にはわずかにその名残をとどめている。現在、土塁はここに残るのみで、当時の姿を伝える西側の高い部分が旧来の土塁(高さ3m)、こちらの低い部分が在りし日の騎西城を偲ぶため、平成10年に復元延長したものである。
※現地看板より

発掘調査によると、土塁の高さは3m以上、下幅は10m以上あったものとおもわれる。断面を観察すると、崩れにくいように灰色土と黄色土を交互に叩き固めている。また、積み方が一様で無いことから、土塁築造後、拡張し修復されたものと思われる。

騎西城は、越後の上杉謙信、小田原の北条氏にとって関東支配の前線基地として重要であった。そのため、幾度か攻められ、それを凌ぐため堀はより広く、土塁はより高く築かれた。南に幅50mの障子堀をもつこの土塁は、攻める者に圧倒的な威圧感を持って対峙したであろう。
※現地看板より

城址碑

武州騎西之絵図
この絵図は、ほぼ中央に沼や深田に囲まれた騎西城が描かれている。戦国時代、騎西城を攻略した上杉謙信はその様子を「騎西城は四方の沼が浅深限りなく、一段と然るべき地で、調儀叶い難し・・・」と書状に記している。城下には堀が縦横に巡り、入口や要所には門や寺社が配置され、容易に侵入できない様子が窺える。城の南側には武家屋敷が広がり、60余りの侍が居を構え、妙光寺から東には足軽町が置かれている。

町場は「本町」と「本宿」で形成され90軒近くが軒を連ね、本町では六斎市(月のうち6回開かれる定期市)が立っている。町場の西門からは熊谷へ、南門からは江戸への街道が伸びている。
※現地看板より

郷土資料展示室
この施設は、騎西町の町制施行20周年を記念して、昭和50年に建てられたものです。かつて、この近くに騎西城があったことから、天守閣をもつ三層の建物として復元されましたが、史実では周囲に土塁や堀を廻らした、平屋建ての城だったようです。館内には、発掘調査による出土品や民族資料などが展示されております。
※現地案内看板より

騎西城(郷土資料展示室)は通常公開しておらず、公開期間はおおむね年4回のみとなります。
〇藤まつり(ゴールデンウィーク期間)
〇あじさい祭(6月中旬)
〇文化祭期間(11月上旬)
〇加須市民の日関連(3月下旬)


二の丸跡
この周辺には城の二の丸があった。
発掘調査では、和鏡や多量の陶磁器などが出土している。
※現地標柱より

天神曲輪

障子堀跡
障子堀とは堀の中に畝を掘り残し、敵の侵入を阻害するものでう「畝堀」とも呼ばれる。ここで発見された障子堀は戦国時代のもので、堀の幅は約50メートルである。堀の中には、深さ約1.5メートルの擂鉢状の穴が整然と並んでいる。障子堀は後北条氏が支配した城に多くみられるが、このような構造は全国的にも珍しい。

堀からは南北朝期の特徴を残す兜が出土し、全国的にも発掘例の少ないものとして注目されている。また、弾丸、薙鎌など数多くの武器も出土している。これらは戦乱に明け暮れた騎西城の姿を、髣髴させるものである。
※現地看板より

大手門跡
ここは騎西城の正門である大手門があったところで、唯一の出入口であった。
門は冠木門と思われる。
※現地標柱より

御蔵屋敷跡
この周辺は騎西城の蔵屋敷があった所で、米などの穀類を貯えた蔵があったのであろう。
※現地標柱より

前玉神社
当社は、「まえたま神社」とも呼ばれ、前玉姫命を主祭神とし、幸いをもたらすという神として崇敬される。江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図」によれば、当社附近は「元ノ久伊豆」と記されている。久伊豆とは玉教神社のことであるが、騎西城内でたびたび出火するため、この地に鎮座していた同神社が、類焼をおそれて騎西の地へ遷座したという。

当社が玉敷神社の移転後に祀られたものか、それ以前から鎮座するのか定かではない。境内には菅原社(天神社)を祀るが、これは騎西城内にあった天神社を移転したと伝えられる。また、境内の疱瘡社は、疱瘡(天然痘)にかかったときお参りすると治るという。
※現地看板より

2016/10最終訪問
城郭周辺地図
埼玉県加須市根古屋
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