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伊豆国 網代城 [ AJIRO CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナアジロジョウ
別称なし
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類平山城
築城者聞間七郎太夫
築城年南北朝時代
廃城年不明
主な城主聞間氏
指定史跡なし/不明
標高31.2 m
城址碑あり
案内板なし
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構なし
現状教安寺
駐車場付近に駐車場なし
最寄り駅JR 網代駅


概要・現地案内板

網代城は肥後の菊池氏の一族である聞間七郎太夫によって築かれたと伝わる。
天正17年(1589)に、安房の里見義頼が攻め寄せた際、城主・岡本善左エ門が攻撃を防いだ記録が残っているが、伝承であって事実かどうかは定かではない。
城址は「朝日山公園」に位置し、眺めは良い遺構はわずかに石積を確認できるのみで、近くには江戸城の石伐丁場がみられる。
麓にある「教安寺」の参道(少し下る)に城址碑がある。


城犬のおいど 攻城記録


教安寺


鐘楼


城址碑


顕彰碑


網代朝日山公園案内


城址碑は教安寺にあったものの、城は朝日山にあったようだ。

石丁場跡


徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる、慶長11年(1606年)より寛永13年(1636年)にかけて江戸城の大規模な増修築をはかった際、諸国の大名に命じて城郭の分担箇所の工事を督励するとともに、伊豆の国(静岡県)より石材の運搬に当たらせた。

石材の採掘は相模の国(神奈川県)の真鶴から伊豆の稲取にかけて行われたが、当時大名が義務として提供する石の割当ては、10万石につき100人持ちの石1020玉ずつであったことから九端帆の石船(100人持の石2つを積む)3000艘も伊豆と江戸の間を月2回ずつ往復したといわれている。

このところも石伐りが行われた跡地でこの辺一帯を熊本城主加藤忠広をはじめ、小倉城主細川忠興や大村城主大村純信の大名が担当し、石伐りと舟積みにあたったものでここに見られる石材は当時の運び残された伐石のひとつで担当した大名の刻印がしるされている。
※現地看板より

2024/8最終訪問


城郭周辺地図

静岡県熱海市網代


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