城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | ハチマンジョウ |
別称 | 郡上八幡城、積翠城、郡城、虞城 |
スタンプ設置場所 | 郡上八幡城1階 09:00-17:00 |
曲輪配置 | 梯郭式 |
城郭種類 | 山城 |
築城者 | 遠藤盛数 |
築城年 | 1559年 |
廃城年 | 1871年 |
主な城主 | 遠藤氏、青山氏、稲葉氏、井上氏 |
指定史跡 | 県指定 |
標高 | 332.2 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | 模擬天守、隅櫓、正門、塀 |
遺構 | 石垣、空堀 |
現状 | 史跡郡上八幡城跡 |
駐車場 | 郡上八幡城 駐車場 |
最寄り駅 | 長良川鉄道 郡上八幡駅 |
概要・現地案内板
永禄2(15559)年、遠藤盛数が現在の城山に陣営を敷いたことが城の創建とされています。
3代城主格稲葉貞通は天正16(1588)年に山頂を本丸とし天守台を設け、山腹の平地を居館とし、二之丸としました。
明治4(1871)年の廃藩置県により郡上藩は廃藩し、翌年から石垣を残して城は順次取壊されました。
城の石垣は、古くは天正期、慶長期、寛文期、文久期のものがあります。
八幡城跡は昭和31(1956)年に岐阜県史跡に指定されました。
昭和初期の経済は低迷していましたが、失業救済のため、八幡町長 仲上忠平が建設を決定しました。
地元郷土振興のため水谷藤兵衛を大工棟梁とし、昭和8(1933)年に大垣城(昭和11年国宝指定、同20年焼失)を参考にした木造四層、入母屋造、桟瓦葺の模擬天守を城山の天守台に建設しました。
昭和8年2月11日に上棟式を行い、5月20日に模擬天守が竣工しました。
第二期工事として櫻之丸に門と土塀、櫻之丸と松之丸に隅櫓各1基を新築し、10月28日に完成、11月3日に落成式を行いました。
模擬天守は昭和62(1987)年に郡上市重要文化財建造物となりました。
八幡城は近代以降に建てられた天守の中で、最も古い木造天守の一つとなっています。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場
首洗い井戸跡
この一帯は駐車場として利用されるまで、杉や雑木の生い茂った湿地帯で、案内板の立つほとりに1基の浅井戸が潰されていた。井戸のまわりには蟇蛙が群棲し、昼も薄暗い陰惨な場所であった。今は埋立られて跡かたもないが、その昔はこの浅井戸は「首洗いの井戸」と言い継がれ、慶長の合戦に際して討ち取られた寄せ手の名のある武士の血や泥で汚れた首が洗い浄められ、首実検に供されたという。
※現地看板より
力石
この二つの石は、寛文7年(1667)城主遠藤常友が城を修理するため領内から多数の人夫を集めたときに、その中の一人である大和町の作兵衛(通称、赤髭)が城下の河原から背負ってこの地まで運び上げたものである。(重さ約350キロ・長さ約1メートル・厚さ約30センチ)奉行の村上貞右衛門がその力量のすぐれているのをみて激賞すると彼は感涙し、たちまち力尽きてその場で卒倒し息絶えてしまった。
奉行は憐れに思ってこの石の使用を禁じたか、昭和8年(1933)に天守閣を建設する際この石が草の中に捨てられているのをみた古川七兵衛氏か作兵衛の心根が世に忘れられたのを嘆き、この地に碑として安置して顕彰しその礎石にことのあらましを記したものである。
※現地看板より
赤谷山城の戦い
入城券売所
続100名城のスタンプを押したい方は、入城料を払って城内で押すことになります。
大手門
模擬天守
大垣城をモデルとして建てられた。
およしの祠
この八幡城は、永禄2年(1559)遠藤盛数によって築城された。その後、八幡城の合戦などを経て石垣も崩れ落ち、大修理を加えなければならない時期がおとずれた。多くの人々の努力により修理が重ねられたが、急斜面の工事は困難を極めた。
この時神路村(現大和町神路)の百姓吉兵衛の美しい一人娘およしは、進んで石運びにも加わり、人々に勇気を与えた上、遂に自分の身を捧げてこの城を守ろうと心を定め、「人柱」となって地中に入った。およしは数え年17才であったと伝えられる。美しい乙女の魂が城を永久に守り抜いたというかなしくも美しい伝えを人々は忘れず現在もおまつりを続けている。
※現地説明板より
櫻之丸隅櫓
模擬天守入口
櫻之丸
天守台は本来穴蔵であったが、現在は見られない。それでも、なんとなく穴蔵を想像させる造りにはなっている。
松之丸隅櫓
松之丸
城山公園駐車場
城山公園(本丸)
郡上八幡城は、永禄2(1559)年の赤谷山城の戦いで遠藤盛数の陣所のおかれた牛首山(八幡山)の山頂を城の基礎として、遠藤慶隆が城郭を整備した。その後、稲葉貞通が入部し、城を大改修し、近世城郭として整備した。再び城主となった慶隆は、堀・石垣・矢倉を設置し、本丸曲輪を分割して松の丸・桜の丸を設けるなど修築をおこなった。
6代目常友は、さらに城郭を改修し、寛文7(1667)年には城主格として待遇された。その後、井上氏・金森氏・青山氏を経て明治維新を迎え、明治3年(1870)年に城去伺いが出され同年5月までに取り壊された。城跡は山頂と山麓部分に分かれ、山麓部分が本丸で大手芝野を入ると一之門、ここから直進して左に折れると二重楼門の二之門から枡形に折れると三之門にあたり、これを抜けると本丸御殿・建物群・井戸等があった。本丸北側は黒門・武器庫の曲輪で山頂に至る西北登拝道が通じていた。
※現地看板より
山内一豊と妻の像
一豊が主君・織田信長による馬揃えを目前に控えて困っていた折に、千代は嫁入りの持参金またはへそくりを出し、駿馬を買わせた。その駿馬が織田信長の目に留まったことが、一豊の出世の糸口となったとされている。
土霊水
八幡城は郡城または積翠城あるいは、城と称し、永禄2年(1559)に遠藤六郎左衛門盛数によって築城されて以来五氏、19代の居城となったが天正16年(1588)稲葉貞通が遠藤氏に代って領有したのち城郭を大改修して、この地に本丸を構え、この門内にあたるここに井戸を掘った。
爾来夏は冷く、冬暖かい滋味ゆたかな水が浪々として尽きず稲葉・遠藤・井上・金森・青山の歴代城主が御殿を構えて日々の飲料水として愛用したいわれを持つものである。
※現地看板より
2024/9最終訪問
城郭周辺地図
岐阜県郡上市八幡町小野
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