城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | ハチガタジョウ |
別称 | なし |
スタンプ設置場所 | 鉢形城歴史館 09:30-16:30(月曜定休) 駐車場正門 歴史館休刊日のみ |
曲輪配置 | 連郭式 |
城郭種類 | 平山城 |
築城者 | 長尾景春 |
築城年 | 1476年 |
廃城年 | 1590年 |
主な城主 | 長尾氏、山内上杉、後北条氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 114.9 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | 四脚門 |
遺構 | 土塁、空堀 |
現状 | 鉢形城公園 |
駐車場 | 鉢形城公園駐車場 |
最寄り駅 | JR 寄居駅 |

概要・現地案内板
鉢形城は、荒川に臨んだ絶崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害をなしています。
文明8年(1476年)に長尾景春が築城し、その後上杉家の持城として栄えました。
室町末期に至り、上杉家の家老で、この地方の豪族であった藤田康邦が、北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して北武蔵から上野へかけての拠点としました。
城跡は、西南旧折原村を大手口とし、東の旧鉢形村を搦手としています。
本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪等があり、土塁、空堀が残っています。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、本多忠勝、真田安房守らに四方から攻撃され、三ヶ月の戦いの後、落城しました。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

外曲輪


馬出
「馬出」とは、虎口(出入り口)を守るとともに、内部の城兵の動きを悟られないようにすることで、出入りを安全かつ円滑に行うことを目的に造られた施設です。鉢形城跡には馬出と考えられる遺構が多く残っています。

二の曲輪
二の曲輪は、平成9年度に発掘調査を実施しました。その結果、掘立柱建物跡・工房跡・土坑・溝などが検出されました。柱穴は位置の確認だけを行い、工房跡や土坑の一部、溝などを調査しました。工房跡は3軒確認されましたが、埋まっていた土の中の炭や鉄宰(鉄のカス)、さらに鞴の羽口(鍛冶炉の通風口)が出土していることから、鍛冶工房と判断しました。

調査によって、現在城山稲荷神社の参道になっている土塁の他に、二の曲輪と三の曲輪を区画する堀に沿って、土塁の基礎の部分が確認されました。前者は地山を掘り残したもので、後者は盛土でつくられた土塁です。また、堀と土塁の間には、広く長い空間が確認されており、敵に攻められた際に城兵が守備につく空間と思われます。

鉢形城には多くの土塁が良く残っていますが、中でも三の曲輪の土塁は、石積土塁として注目されます。二の曲輪と三の曲輪を隔てる堀の発掘調査は、平成9年度と11年度の2回にわたって実施しました。その結果、最大上幅約24m、深さ約12mの大規模な堀であることが判明しました。また、堀の底には、「畝」と呼ばれる高まりが発見されました。この「畝」は、敵兵が掘底で動き回るのを防ぐためのものであるという説と、堀底の水を一定に保つためのものという説があります。

このような、畝をもつ堀を「障子堀」といい、小田原城、岩槻城や深谷城などの後北条氏系城郭の特徴とされてきましたが、近年の発掘調査では、後北条氏の時代より前から「障子堀」が用いられていたようです。二の曲輪の土塁は、高さが不明であることから、位置を示すことを目的に低く復元しています。また、堀は、遺構面の保護と安全対策から堀底を高くしています。
※現地看板より

三の曲輪

四脚門

石組排水溝

井戸

秩父曲輪
この場所は、鉢形城跡の三の曲輪の中でも最も高いところで、平成10~13年度に発掘調査しました。伝承では、北条氏邦の重臣である秩父孫次郎が守った秩父曲輪といわれています。この曲輪は、門と土塀、土塁・堀によって区画され、その内部は大きく二つに分かれています。そのひとつは庭園が発見された区域で、池を囲むように建物が配置されていました。発掘調査では掘立柱建物跡が数棟確認されましたが、礎石建物も建てられていたと思われます。

天目や茶入などの茶道具や、後北条氏の中核的な支城でしか発見されていないカワラヶなどが出土していることから、宴会や歌会などを行う特別な空間であったと思われます。それに対し、庭園の区域よりも一段低い南側の空間では、囲炉裏の存在を示す自在鉤や鍋などの生活用品が出土しており、日常生活の空間と思われます。
※現地説明板より

石積土塁
この曲輪の土塁は、全長約100m、高さは約4.2mで、馬踏(上幅)約6m、敷(下幅)約12mの規模をもち、鉢形城内でも最も良く残っていました。調査の結果、内側には河原石を3~4段の階段状に積上げていることが確認され、雁木と呼ばれる階段もつくられていました。

裏込石がなく、高さも一団が1m程度で、いわゆる江戸時代の城の石垣とはその規模・技法等において見劣りしますが、関東地方の石積技術の有様や石積を専門とする技術者の存在を示す重要な発見となりました。整備事業では、鉢形城が廃城になる直前の時期を基準に、庭園と石積土塁、井戸・石組溝を復元し、2棟の掘立建物跡をそれぞれ四阿と丸太で表示しています。
※現地説明板より

逸見曲輪

伝御殿曲輪


笹曲輪


2023/9最終訪問
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