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川中島古戦場

川中島合戦は今から400年前、天文22年より永禄4年に至る13年の永きに亘って行われたが、後世広く伝えられている川中島合戦は永禄4年の戦いを指している。
この戦は越後の雄将上杉謙信、甲斐の智将武田信玄がここ川中島に雌雄を決せんと武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍併せて3万3千余、9月10日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼」の配備と謙信の「車懸」の攻撃で双方死斗を蓋し、ここ八幡原は大修羅場と化した。
その中にあって、謙信は只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし武田の本陣に切り込み不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという有名な「三太刀、七太刀」も此の処である。
時に信玄41才、謙信32才であった。この戦で死傷者7千人を数え史上最大の激戦で両将の決戦場ここ八幡原に現存する土盛りの跡は、武田本陣桝形陣地で当時の一部を物語っている。
両将の戦術は幾多の戦術研究の指針とし現代戦にも多く応用されたと聞く。
武田の居城海津城は東南4粁の松代に、また頼山陽の「鞭声粛々夜渡河」で有名な雨宮渡は東側を流れる千曲川の上流的天粁の地点である。

※現地看板より


川中島の戦い
交戦勢力武田信玄軍上杉謙信軍
発生年月日
場所長野県
参戦武将武田信玄
山本勘助
馬場信房
上杉謙信
柿崎景家
戦力2000013000

川中島古戦場関連施設

都道府県施設名住所施設詳細
長野県川中島古戦場跡公園長野市小島田町1384-1川中島古戦場に開設した公園

信玄・謙信一騎打ちの像


武田方の軍学書『甲陽軍鑑』に記された「武田本陣で床几に腰掛ける信玄めがけて上杉謙信が馬上から太刀で切りつけ、信玄がそれを軍配で受ける」という永禄4年(1561)9月10日の一場面を銅像で表現したものです。

執念の石


武田・上杉両軍3万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から諸戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が手薄となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅が、傍らあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。

苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。一方謙信を取り逃し、無念やるかたない原大隅は、傍にあったこの石を槍で突き通したといわれている。
※現地看板より

逆槐


永禄4年(1561)川中島の戦いの際に土塁の土留め用に自生の槐を杭として、根を上に打ち込んだものが芽を出し、400年を経て巨木に成長したと伝えられています。

胴合橋


永禄4年9月10日、川中島合戦の時、山本勘助が東福寺泥真木明神(勘助宮)付近で戦死した後、その家来が敵の手から首を奪い取り胴と首とを合わせた所という。朝霧の中から突如として姿を現した越後軍1万2千の大軍が武田方の備えを次々突破し破竹の勢いで、信玄本陣目がけて突進する。

(長野市篠ノ井杵淵字胴合)

これを見た山本勘助は、長嘆して「甲越合戦すること15年、その間大小の合戦10余回あったが敵の作戦を見損じたことは一度もなかった。しかし今日は、川霧のために大軍が迫るのをしらなかったのは、わが武運の尽きる時。」と言って越後勢の中に突入して家臣もろとも首を落とされてしまったという。勘助の家来たちが主人勘助の首と胴を合わせた場所がこの胴合橋であったというが、典厩信繁と言う説もある。
※現地看板より

妻女山


川中島合戦図


上杉謙信槍尻の泉


上杉謙信槍尻の泉


2016/7最終訪問


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