城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | ヨシダジョウ |
別称 | 今橋城、豊橋城、吉祥郭、峯野城、歯雑城、三河吉田城 |
スタンプ設置場所 | 吉田城鉄櫓 10:00-15:00 豊橋市役所東館13階 08:30-17:15 |
曲輪配置 | 梯郭式(半輪郭式と記載されているのが多い) |
城郭種類 | 平城 |
築城者 | 牧野古白 |
築城年 | 1505年 |
廃城年 | 1871年 |
主な城主 | 牧野氏、戸田氏、小原氏、酒井氏、池田氏 竹谷松平氏、深溝松平氏、沼津水野氏 山形水野氏、小笠原氏、久世氏、長沢氏 大河内松平氏、本庄松平氏 |
指定史跡 | 市指定 |
標高 | 12.1 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | 模擬鉄櫓 |
遺構 | 石垣、土塁、空堀 |
現状 | 豊橋公園 |
駐車場 | 豊橋公園 駐車場 |
最寄り駅 | 豊橋鉄道 新豊橋駅 |

概要・現地案内板
吉田城ははしめ今橋城と称し、永正2年(1505)牧野古白によって築城された。
以来東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将が攻防を繰り返した後、天正18年(1590)に池田輝政が入封し15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。
しかし輝政は在城10年で播磨姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため輝政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
三の丸口門跡

三の丸



二の丸口門跡

冠木門跡

千貫櫓跡

内堀

南御多門跡
本丸の正面入り口にあった門。
※現地案内図より

本丸


鉄櫓
吉田城で最大の櫓。古絵図には、天守と描かれたものが何枚かある。
※現地案内図より

鉄櫓入口

スタンプ設置場所
続日本100名城スタンプはこちら。

吉田城(本丸)復元模型

吉田城鳥観図
この図は五重の大天守、三の丸まで堂々たる吉田城を描いています。吉田城には五重の天守は無く、石垣も本丸や虎口を中心に築かれ、他は土塁でした。したがって、本図は架空の姿を描いたものです。しかし、櫓・門・蔵などの建造物の配置は正確であり、理想の吉田城を描いたとも考えられています。
※鉄櫓内展示物より


武具所跡

北御多門跡

腰曲輪跡
鉄門の石垣は野面積で、池田輝政期の石垣である。

本丸井戸跡


裏御門跡


池田輝政期の石垣

吉田城の縄張り
吉田城の縄張りは豊川や朝倉川を背に本丸を基点として、二の丸・三の丸を前面と側面に配した半曲郭式の「後ろ堅固の城」と称されるものである。ただし、この縄張りの欠点は、河川を背にして戦う背水の陣となり、さらに背後からも渡河され、本丸を直接攻撃されやすいことにある。このため、吉田城は本丸背後に腰曲輪を備え、石垣もより高く強固なものとしてその弱点を補っている。

その城域は、東は現在の飽海町から旭町、南は曲尺手町から呉服町、西は関屋町に達するおおよそ840000㎡(約25万5千坪余)にも及ぶ広大なものであった。今橋城時代の縄張りがどのようなものであったのかそれを裏付ける史料はないが、往時の本曲輪は、現在の本丸と三の丸会館の間(現在地付近)の金柑丸跡を中心とする一帯と推定される。
※現地看板より

金柑丸
今橋城の本丸跡と言い伝えられている。
※現地案内図より

豊城神社



腰巻石垣



豊橋公園駐車場

大手門跡


2024/11最終訪問
城郭周辺地図
愛知県豊橋市今橋町
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