城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | ヌマジョウ |
別称 | 亀山城 |
スタンプ設置場所 | - |
曲輪配置 | 連郭輪郭複合式 |
城郭種類 | 平山城 |
築城者 | 中山信正 |
築城年 | 天文年間 |
廃城年 | 1602年 |
主な城主 | 中山氏、宇喜多氏 |
指定史跡 | 市指定 |
標高 | 28.6 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | なし |
遺構 | 土塁、空堀 |
現状 | 弁天神社・宅地・浮田小学校 |
駐車場 | 付近に駐車場なし |
最寄り駅 | JR 上道駅 |

概要・現地案内板
亀山城は、城の本丸、二の丸のあった弁天山の形が亀に似ているところから名づけられた。
沼城ともいう。
小学校の所在地に西の丸、撙部に出丸があり、これらを総称して亀山城と呼んだ。
戦国時代、中山備中守信正によって築城され、宇喜多直家が永禄2年(1559年)浦上宗景よりこの城を賜り、新庄山城より移った。
以来直家の壮年時代活躍の拠点となった城跡である。
天正元年(1573年)岡山城に移るまでの14年間在城した。
慶長6年(1601年)春、宇喜多氏にかわって岡山城主となった小早川秀秋によって廃城となり、亀山城の中心櫓(天主)は岡山城表書院の段の大納戸櫓に、城門は秀秋の家老稲葉内匠頭本邸の表門に移築された。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録

宗形神社



本丸

弁天神社

弁財天宗形神社


本丸虎口



宇喜多秀家ゆかりのソテツ
亀山城跡が生誕の地と言われている秀家は、天正9年(1581)、父直家の遺領を継ぎ、天正10年の備中高松の役以降、数多の功を成し、養父豊臣秀吉の寵愛を受けた。天正17年には、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を妻に迎えた。文禄の役では元師を務め、戦後その功により中納言に昇進。さらに、豊臣政権の最高機関である五大老に任じられ、名実ともに政権の実力者に名を連ねた。

この間の天正18年、岡山城の築城に着手。旭川改修や城下町整備を進めるなど、のちの岡山発展の基礎を築いた。慶長5年(1600)、西軍の主力として挑んだ関ケ原合戦で敗北。慶長11年に八丈島最初の流人となり、明暦元年(1655)、84歳で没した。島で久福と名を改めた秀家の居住跡には秀家が手ずから植えたとされるソテツが今もある。このソテツはその株分けであり、このたび、秀家の顕彰グループ八丈島久福会により、最期の地である八丈島から生誕の地である岡山に、交流の証として贈られたものである。
※現地看板より

標柱(本丸跡)
沼城ともいう。湿田中に島状に並ぶ二つの丘陵に築造された連郭・輪郭式折衷の山城である。城郭遺構が丘陵全体に認められてる。宇喜多直家の戦国大名としての成長期の居城で、城郭規模や、内容由来が旧備前国内屈指のものである。平成24年9月に岡山市の史跡に指定された。
※現地案内板より


蘇鉄の由来
八丈島の宇喜多秀家の菩提寺宗福寺に蘇鉄が数株植えられている。蘇鉄に花が咲けば赦免があると言われてきた。赦免花が咲く事は流人にとって狂いたいほどの瑞兆なのである。しかし宇喜多一族に対しては260年余りにわたって何の沙汰もなかった。徳川幕府からよほど敵視されていたのであろう。そして宇喜多一族が赦免になったのは、明治2年2月9日であった。
※現地看板より

力石

亀山城物語



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