コンテンツへスキップ

武蔵国 世田谷城 [ SETAGAYA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナセタガヤジョウ
別称吉良御所・世田谷御所
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類平城
築城者吉良氏
築城年応永年間
廃城年1590年
主な城主吉良氏
指定史跡都指定
標高37.6 m
城址碑なし
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構なし
現状豪徳寺
駐車場付近に駐車場なし
最寄り駅東急電鉄 宮の坂駅


概要・現地案内板

世田谷城は武蔵野台地の一角、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る。14世紀後半に吉良治家が居城したのに始まると伝える。
吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、世田谷吉良氏はその庶流にあたる。
はじめ鎌倉公方に仕え、15世紀後半に関東が乱れると関東管領・上杉氏やその家宰・太田道灌に与力し、16世紀には北条氏と結んだ。北条氏と上杉氏との勢力争いで、享禄3年(1530)には世田谷城は攻略されたと伝えるが、のち吉良氏の手に復した。
この間、吉良氏は北条氏と婚姻関係を結び、その庇護下にあったが、天正18年(1590)、豊臣氏の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
世田谷城の濠・土塁の構造は天文6年(1537)の再築とされる深大寺城のそれと類似しており、16世紀前半に防御の為、大改築がなされたことが窺える。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


世田谷城阯公園


世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治5年(1366)、吉良治家によって築城されたといわれていますが、定かではありません。永和2年(1376)に吉良治家が鎌倉八幡宮にあてた文書から、おそらくとも14世紀後半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。

応永33年(1426)には「世田谷吉良殿」などと称され、足利将軍家の御一家として諸侯から一目置かれる存在でした。また、15世紀後半には江戸城の太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄します。その後、吉良頼康の代には、小田原北条氏と縁戚関係をもつようになりますが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城になりました。

その後しばらくして、当地は彦根藩井伊家の所領となりますが、城内にあったとされる吉良氏の小庵、弘徳院は豪徳寺の前身といわれています。
※現地看板より

世田谷城は目黒川の支流、烏山川が大きく蛇行する地点の北側、三方を川に囲まれ、南側に突き出した台地上に築かれています。また、城北方をとる滝坂道と東方の鎌倉道が交差する交通の要衝にあたっています。城郭の構造としては豪徳寺南東の郭は南北約120m、東西約60mほどの広さで、本来は南北に開口していたと考えられる台形の土塁に囲まれています。世田谷城址公園には、土塁と堀の一部が残されています。

世田谷城の範囲については諸説あり、規模は判然としませんが、現時点では、この豪徳寺を中心として複雑に展開する8ヵ所以上の郭や土塁・堀で構成され、豪徳寺南東の主郭「周辺を非常時の「詰城」、北側の豪徳寺部分を「吉良氏館」と推定し、このふたつが一体となって「世田谷城」を構成していると考えられています。
※現地看板より(一部加筆あり)

土塁と空堀


豪徳寺


寛永10年(1633年)にここ世田谷が彦根藩の所領地となり、既にそこにあった文明12年(1480年)に建立された「弘徳院」を、彦根藩主井伊家は江戸菩提寺と定めた。その後、万治2年(1659年)2代藩主井伊直孝の法号「久昌殿豪徳天英徳院大居士」に因み豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至る。

それは、江戸時代の大名墓所の形態をよく保存し、江戸周辺では最大規模の国指定史跡となっている。そこには仏殿、灯篭、鐘楼は創建当時のもので、広大な敷地内に法堂、書院、招福殿、三重の塔、地蔵堂、種月園(枯山水)や井伊家歴代の墓があって、世田谷を代表する古刹でもある。

また、この寺には、2代藩主井伊直孝が鷹狩りの折、住職の愛猫「たま」の招きで、落雷を逃れたという伝説があって、豪徳寺の「招き猫」は幸運を招くとされ、家内安全、商売繁盛、心願成就を願う招福殿への参詣者が多い。なお、豪徳寺の境内(15000坪、約50000㎡)には四季折々の草木があり、梅・桜・牡丹・つつじ・アジサイや晩秋の紅葉などが楽しめる。そして石門から山門に至る参道の松並木、さらに野鳥が飛び交う奥深い森林もまた見所である。
※現地看板より

彦根藩主井伊家墓所


井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家24世とされる直政は天正3年(1575)、15歳で徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ケ原合戦においては、自ら先鉾を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。

続く二代直孝も大阪夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近待し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永10年(1633)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。

墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、13代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院殿・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(1658)に建てられた。直孝が没したのは万治2年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。

以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、墓所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所存する墓石の総数は300基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の3ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。

各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定された。
※現地看板より


井伊直弼の場所

2024/8最終訪問


城郭周辺地図

東京都世田谷区豪徳寺


[ HOME ] [ 城郭データーベース ] [ 東京都の城郭一覧 ]

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

PAGE TOP