城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | ナガハマジョウ |
別称 | なし |
スタンプ設置場所 | - |
曲輪配置 | 連郭式 |
城郭種類 | 水城 |
築城者 | 大川氏 |
築城年 | 室町時代 |
廃城年 | 1580年 |
主な城主 | 大川氏、後北条氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 30.6 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | なし |
遺構 | 土塁・堀切 |
現状 | 史跡長浜城跡 |
駐車場 | 長浜城跡見学者駐車場 |
最寄り駅 | 伊豆箱根鉄道 田京駅 |

概要・現地案内板
戦国時代の水軍の拠点の多くは、陸地から離れた島に築かれていますが、この長浜城は全国的にも珍しい山城の特徴を持つ水軍の城で、海側と陸側で見所が異なります。
海側には、最も高い所にある第一曲輪を中心に、海と山に向かって曲輪がL字型のように配置されているなど、後北条氏の城の特徴を見ることができます。
一方、陸側には、敵の侵入に備えて、山城の特徴である多数の土塁や、空堀、尾根を切断するように造られた堀切も見ることができます。
※現地案内板より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場

長浜城跡模型
長浜城跡は、発端丈山から北東に延びる尾根先端部にあり、敵の攻撃から重須湊を守るために築かれた城です。城の南側を除く三方は、急斜面でけわしい深い海に接しており、戦国時代の軍艦である安宅船の停泊にも適していました。また、城の周囲も崖となっており、水軍城として絶好の立地条件にあったといえます。

模型は地形測量や発掘調査の成果を基に城の地形や敷地などを表示しています。なお、表示した城周辺の海岸線や道などは、現在では埋め立てが進み地形も大きく変化しているため明治20年の旧陸軍による測量図を参考にしています。まだ重須には山越え道が続いており、戦国時代から大きな変化がなかったものと考えられます。縮尺は、垂直縮尺200分の1、水平縮尺300分の1としており、やや高さを強調しています。
※現地看板より

登城口


第四曲輪
第四曲輪は長浜城の中でも小規模の曲輪ですが、この位置から尾根伝いに登ってこようとする敵をここで撃退する役目を担っていたと考えられています。第一曲輪から第三曲輪までは比較的短い距離で並んでいますが、第四曲輪は、やや大きめの「堀切」を挟んで、第三曲輪と離れて築かれており、第三曲輪よりも8メートルほど低い位置にあります。

他の曲輪と異なっている特徴として、この曲輪の土塁は単に土を盛るだけではなく、凝灰岩の岩盤を削り残すことで土塁としており、かつての土塁の幅は約5.5メートル、曲輪中央部との高さの差が約1.5メートルもあったと考えられます。狭い第四曲輪において、全体の面積に占める土塁の割合が非常に高く、生活よりも防御に重点があったようです。土塁の頂部に1基だけですが柱穴が確認されており、これは、何らかの防御施設の痕跡を示しているのかもしれません。
※現地案内板より

大手虎口
戦国時代の山城には、尾根伝いに攻めてくる敵を食い止めるために尾根と直交する形で掘られた大きな堀、「堀切」という施設がみられます。長浜城が築城されてから間もなく、この場所には第二曲輪と第三曲輪とを切り離す「堀切」が設けられ、これは第三曲輪と第四曲輪との間に残っている「堀切」と同じく、岩盤を深く掘り込んだ大きなものでした。

発掘調査によって、第二曲輪側の壁には堀底から約1.3メートルの高さに岩盤を掘り残した幅約1.2メートルの柱穴が2つ見つかりました。太く高い2本の柱が立てられていたことがわかり、跳ね橋の主柱だったのではないかと推定されました。 しかしながら、この「堀切」はのちに埋められ、幅を狭くして虎口(出入口)に改造されました。かつて跳ね橋のあった位置に門が立てられ、跳ね橋の柱穴の一つが再利用されて門柱の一方となり、第三曲輪側約2.2メートルの位置にもう一方の門柱が設けられました。

この様にして、時期の異なる二つの建物が存在した結果、この場所にL字形をなす3本の柱穴が残ることになりました。現状は、門へ登ってくる道の正面に第二曲輪の高い土塁がそびえ、側面上方には第三曲輪の土塁が迫る、長浜城の最終段階における堅固な防衛態勢の姿をとどめています。改造される以前も、跳ね橋と推定される橋が設けられていた場所であり、ここは城全体の防衛上、常に大切な地点でありつづけたのだろうと考えられています。
※現地案内板より

第三曲輪
第三曲輪は、弁天社の祠の南側に見える堀削痕から、大部分が削り取られていると推測されています。当時の地形で残っているのは、この説明板が立つ南側の一部だけで、戦国時代の第三曲輪の平面は祠が建っている高さではなく、現在地の場所の高さで生活が営まれていました。曲輪の内部からは、直径約50センチの掘立柱の柱穴が並んで発見されており、掘立柱建物もしくは柵が存在していたようです。

この曲輪も他の曲輪と同様に重須側にのみ土塁がめぐっています。特にこの説明板が立つ地点からは、土塁や柵で身を守りながら、大手口へ登ってくる敵を上から見下ろして、側面攻撃を浴びせる仕組みをとっています。この側面攻撃の仕組みは、「横矢」と呼ばれ、北条氏の城郭で盛んに用いられた方式であり、第三曲輪、虎口(出入口)、第二曲輪の三地点を組み合わせて、防御機能を果たしていました。
※現地案内板より

第二曲輪
第二曲輪は長浜城のなかで最も広い平面で、発掘調査によって180基ほどの穴が発見されました。ここには掘立柱の建物が建っていたと考えられます。柱穴の痕跡は第二曲輪前面に広がるのではなく、西側よりにかけて一部密集しながら、細長く広がっていました。このことから、建物は少しずつ位置をずらしながら何回も繰り返して建て替えられたと考えられ、

さらに柱穴の配置から南北軸にする建物と、それに直交する東西軸で建てられた建物があったと推定されました。ここでは、最大の大きさである第一号建物とそれに直交する第六号建物の柱を復元表示しています。建てられていた時期や建物の性格を推測できる建物の出土が少ないため、正確なことはわかりませんが、兵舎や食料庫などの建物であったと考えられます。
※現地案内板より

堀
第二曲輪西側北端では、第一曲輪の裾に沿う形で設けられた堀が見つかりました。当初、この堀は重須側の斜面に設けられている竪堀に直接繋がっていると考えられていました、発掘によって2つの堀の接続部に畝状の堀り残しがあったことがわかりました。斜面に設けられた竪堀をのぼってきた敵は、仕切になっている畝状の堀り残しに阻まれてこの堀に入ることができず、

第二曲輪には容易に進入できない仕組みになっていたのです。この堀は第二曲輪の中だけで完結する「池」のような構造になっており、長さは約8.0メートル、上幅で約3.0メートル、下幅で約2.0メートル、深さは約1.6メートルの箱型で、安山岩を削り込んで作るという手のこんだ構造になっています。畝を乗り越えてようやく第二曲輪に侵入できたとしても、この堀があるために、敵兵は第一曲輪へ登る斜面に容易にとりつくことができない仕組みになっていました。この堀は、北側の櫓と組み合わせて第一曲輪を守る施設であったようです。
※現地案内板より

眺望

第一曲輪
長浜城の中で最も高いところに位置する第一曲輪からは、北条氏の敵城である三枚橋城がよく見えます。ここでは、三枚橋城の監視や水軍の指揮が行われていたのでしょう。第一曲輪には西側から北側にかけて、土塁が「L」字状に設けられています。

また発掘調査によって、東側に岩盤の安山岩を掘り込んだ90センチほどの大形の柱穴が2基と、南側から西側にかけて「L」字状に伸びる小形の柱穴列が発見されており、大形の柱穴は「門」、小形の柱穴列は「塀」と推定されました。この2つの組み合わせによって、第一曲輪の中には周りからは見えないように囲われた特別な空間が設けられていたと考えられます。城兵や水軍に対して命令を出す人物が第一曲輪にいたのかもしれません。
※現地案内板より

伊豆国長浜城から見える駿河国
よく晴れた日には、ここから富士山と愛鷹山を背景として沼津市街が広がる様子を見渡すことができます。戦国時代、長浜城が北条氏の海城であった頃にも、この場所から狩野川の河口あたりがよく見えたはずです。天正7年(1579)、この狩野川河口に北条氏の敵である武田氏が三枚橋城を築いて水軍を配置しました。

北条水軍はこれに対抗するため、梶原備前守景宗を大将として、ここ長浜城に特別な軍船隊を置きました。梶原景宗は伊勢の出身で、当時西国で発達していた「安宅船」と呼ばれる大型軍船の運用を得意としていました。長浜城は梶原景宗の指揮する「安宅船」船隊の基地として整備され、武田水軍に対して有利に戦いを進めるための足場になったのです。
※現地案内板より


曲輪A
第一曲輪から海に向かって北東に延びる尾根上には地形に合わせて大小4つの曲輪が階段状に、そして直線的に配置されています。第一曲輪に附属する施設とみなされることか、「腰曲輪」と呼んでおり、第一曲輪に近い方から便宜的に腰曲輪A,B,C,Dという名称をつけてあります。

現在地は腰曲輪Bとなり、いずれの曲輪も、尾根を削る、土を盛るなどの大規模な土木工事を行うことで広い面積を作り出していました。
発掘調査では、柱の跡は見つかったものの、遺物の出土がきわめて少量で曲輪の性格を断定するための証拠を得ることはできませんでした。とはいえ、長浜城は水軍同士の戦いを支える「海城」という性格を持っていたため、海に突き出たこれら曲輪群は海側から城内に攻め込もうとする敵を撃退する役目を持っていたのだろうと考えられます。
※現地案内板より

曲輪C


曲輪D




安宅船原寸大模型
下のガイダンス広場では、長浜城にあったとされる軍船「安宅船」を原寸大で表示しています。
※現地看板より


竪堀
戦国時代の山城は、地面を掘って敵の侵入を防いだ堀を構えていました。堀の種類には、尾根を登って来た敵を防いだ「堀切」、山の斜面を横に進んで来た敵を防いだ「竪堀」などがありました。ここに見えるくぼみは竪堀で、今は土がたまって浅くなっていますが、本来は岩盤を削ってつくった深いものでした。

竪堀は第一曲輪を守る堀と位置を合わせて斜面につくられ、敵が向かって右側の第二曲輪の南斜面から横に移動して、向かって左側にある第一曲輪に近づくのを、この竪堀が防いだのです。また竪堀と第一曲輪を守る堀が接した部分には、畝状の掘り残しがあり、敵がこの竪堀の底を通って、第一曲輪を守る堀に登れないようにもしています。このように長浜城の陸側は、城の中心部に敵が簡単には接近できない守りの工夫をしていたのです。
※現地看板より

石積

安宅船
安宅船は、戦国時代に伊勢から瀬戸内にかけての海で使われ始めた大型軍船です。戦国時代後半には東国の大名の間でも使われるようになり、甲板を全周する楯板(装甲板)の強固な防御力や、前面に設置した大筒(大砲)などの大火力は、それまで東国で使われていた軍船を圧倒しました。

安定感のある船体も特徴で、矢や鉄砲を放つための狭間(窓)や櫓の存在から、後世には「海上の城」とも呼ばれました。
※現地看板より

石積み
この場所では、発掘調査によって堤防と考えられる石積みがみつかりました。石積みの石は、川石をそのまま使ったと考えられます。実物はこれより2m下に現地保存されていますが、整備では1段目だけをレプリカで再現しました。
※現地案内板より

岩礁ピット
岩礁ピットは柱穴のことで、この穴に柱を立てて船を繋いでおく役割を果たしていました。波の穏やかな海岸に船着き場がありました。




城址碑

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