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陸奥国 盛岡城 [ MORIOKA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナモリオカジョウ
別称不来方城
スタンプ設置場所盛岡市観光文化交流センター プラザおでって 09:00-21:00
もりおか歴史文化館 09:00-19:00
曲輪配置連郭式
城郭種類平山城
築城者南部信直
築城年1598年
廃城年1871年
主な城主南部氏
指定史跡国指定
標高137.0 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物移築土蔵、移築門
復元建造物なし
遺構石垣、土塁、空堀
現状盛岡城跡公園
駐車場盛岡城跡公園 地下駐車場
最寄り駅JR東北本線 盛岡駅


概要・現地案内板

盛岡城は、三戸から不来方に居城の移転を決定した南部信直(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。
城の縄張は豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰曲輪などを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪(御城内)としています。
さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外曲輪としました。
また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪(総構え)が配置されています。
築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直(3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。
盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しましたが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平の設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


城址碑


鳩門跡


三の丸


東門跡


二の丸


二ノ丸井戸


榊山稲荷曲輪跡


消防義魁碑


警察彰功碑


渡雲橋


本丸


南部利祥中尉銅像台座


南部家42代当主であった南部利祥(明治15年:1882~明治38年:1905)は、明治37年(1904)日露戦争に従軍。翌38年(1905)井口嶺攻略戦に参加。ともに従軍していた皇族軍人竹田宮恒久王を守り、その楯となって戦死したと伝えられています。銅像は、利祥に功五級金鵄勲章が下賜されたことを顕彰するとともに、故人の霊を慰めるために建設されたもので、東條英教が建設委員長、原敬、田中舘愛橘、鹿島精一らが委員となり、5,000人余の賛同を得て進められました。

制作にあたっては、身体部分を新海竹太郎、馬体を後藤貞行に依頼、久野留之助が鋳造。花崗岩製の台座については、伊東忠太の意匠に基づいて横浜勉が設計、鹿島組が施工し、明治41年(1908)9月に完成しました。銅像本体と玉垣の鎖は、昭和19年(1944)4月に軍需資材として供出(献納)され、現在は台座のみが残されています。
※現地案内板より

夕陽亭


天守跡


眺望


腰曲輪


石垣修理に伴っておこなわれた発掘調査の結果、腰曲輪の遺構が大きく4時期にわたって変化していることがわかりました。
①不来方城期(15~16世紀)ー盛岡城築城以前の福士氏の居城であった時期、斜面に空堀、土塁などが階段状に設けられ、本丸の周囲を廻っていました。
②盛岡城1期(16世紀終末)ー南部氏における築城が開始された時期で、本丸や二ノ丸などには石垣が築かれましたが、腰曲輪は土手のままで、周囲に柵が廻っていました。


③盛岡城2期(17世紀前半)ー腰曲輪の南側と東側、北東側に石垣が築かれます。この時期の腰曲輪の南側は、現状の平坦面よりも2mほど低い窪地になっていました。
④盛岡城3~5期(17世紀後半)ー腰曲輪西側にも石垣が構築されたほか、南側の窪地はしだいに埋め立てられ、江戸時代末期(19世紀前半)には、現状のような平坦な地形になりました。
※現地案内板より

本丸南西部の石垣


本丸は城内の中心部にあたり、城主が日常生活や政務を行う場として使われていました。本丸南西部でおこなわれた発掘調査の結果、石垣は築城当初(16世紀末~17世紀初頭)から構築されていましたが、元和年間(17世紀前半)以降の本丸を拡張するため、築城期の石垣を覆い隠すように構築されていることが確認されました。

さらに藩政時代の記録によると、この部分の石垣は地震によって傷んだため、元禄16年(1703)と宝永2年(1705)に石垣の修復を幕府に届け出ており、宝永3・4年(1706・1707)に工事が完成していることが記されています。この部分の石垣は、鑿加工により石材が整形されており、本丸の他の部分に比べ規格が揃っています。
※現地説明板より

宝蔵跡


腰曲輪とは、城の守りを堅くするために主要な曲輪の周囲に配された細長い曲輪のことで、盛岡城では本丸の東・南・西の三方を囲む一段低い区画となっています。曲輪の東辺には二ヶ所の折邪があり、それぞれ櫓が構えられていました。そのうち、北側の櫓は単層で、南側の櫓は二層となっており、お互いの櫓は武者走りにより連結されていました。

この二層の櫓については発掘調査の結果、櫓の規模が拡張されており、建替えがあったことがわかりました。そのほか、東側北辺の一段低いところには石組の井戸が現存しています。南西部には喰い違いの虎口と「吹上門」があったほか、吹上門の側には「御宝蔵」、本丸南辺の石垣下には「馬場」があり、さらに東側には南部信直・利直父子を祀る「櫻山御宮」がありました。
※現地説明板より

帯曲輪


御台所跡


彦御蔵


彦御蔵は、盛岡城内に現存する唯一の建造物で、棟札がなく建築年代は不明ですが、江戸後期に建てられた蔵と考えられています。構造は、土蔵造の木造2階建で外壁は漆喰塗り仕上げ、屋根は野地板の上に土塗りとし、その上に木造屋根組をもたせた二重構造で、その上に瓦を葺いています。内部は、10間(18.5m)×5間(9.18m)の総2階となっており、中央にある八角形の棟持柱3本で建物を支えています。

さらに、建物の中央部分に仕切が設けられており入り口も2箇所あることから、それぞれ用途の異なる道具類を収めていたものと考えられます。この蔵は、現在地から約100m西側の市道際にありましたが、道路拡幅計画範囲にあったため移設保存されることとなり、江戸時代に米内蔵のあったとされる現在地に曳き家し、改修されたものです。
※現地案内板より

坂下門跡


櫻山神社


烏帽子岩


盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ二丈ばかり突出した大石が出てきました。この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。
※現地看板より

盛岡市観光文化交流センター プラザおでって


スタンプ設置場所


日本100名城のスタンプ設置場所

2018/5最終訪問


城郭周辺地図

岩手県盛岡市内丸


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