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出羽国 久保田城 [ KUBOTA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナクボタジョウ
別称窪田城、矢留城、葛根城、秋田城
スタンプ設置場所久保田城御隅櫓 09:00-16:30
曲輪配置
城郭種類平山城
築城者佐竹義宣
築城年1603年
廃城年1880年
主な城主佐竹氏
指定史跡市指定
標高38.3 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物本丸裏門(鱗勝院)、城門(休宝寺)
復元建造物新兵具隅櫓、本丸表門
遺構土塁、空堀
現状千秋公園
駐車場千秋公園内コインパーキング
最寄り駅JR 秋田駅


概要・現地案内板

久保田城は、秋田二十万石佐竹氏の居城である。
秋田初代義宣(よしのぶ)が慶長七年(1602)入部し、翌八年現在地に築城した。
天守と石垣のない城として知られている。
本丸は明治十三年公園として開放されその後千秋公園と称し現在に至っている。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


二の丸跡


本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内堀を渡って二の丸に集まった。勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などがおかれ、特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、能や踊りの見物のために町人に開放されることもあった。

※現地標柱より

長坂門跡


長坂門は、本丸の玄関口である表門(一の門)の前に設けられており、二の門とも呼ばれていた。現在、久保田城跡に唯一残っている御物頭御番所(秋田市指定文化財)がこれらを管理していた。長坂門の名称は、二の丸から本丸へとのぼる長い石段「長坂」にちなんで名付けられたものである。

※現地標柱より

御物頭御番所


御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属す役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。御番所の南側14畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。北側には7畳半の休息所や台所・便所があり、中二階には8畳の部屋が配置されている。

「国典類抄」などの資料によれば、御物頭御番所は宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。久保田城内で旧位置のままで残っている唯一の建造物である。昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。
※現地看板より

中二階


久保田城表門


久保田城本丸の正門で、一ノ門とも呼ばれていました。本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には、門の警備と管理をする「御番頭局」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所」を置いて厳重な守りを固めていました。

※現地看板より

礎石


本丸跡


久保田城が築かれた神明山は、三つの高地からなる標高約40メートル程の起伏のある台地で、別名三森山とも呼ばれていた。築城は慶長8年(1603)5月から着工され、翌9年8月に完成した。本丸は、最も高い所を削平や土盛をし、平らにして造られた。東西65間(約117メートル)、南北120間(約215メートル)のほぼ長方形を呈し、周囲には高さ4~6間半(約7.3メートル~11.8メートル)の土塁を構築している。

本丸の建造物には、表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿があった。また、土塁の上を多門長屋と板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓を設けた。西南隅の土塁上には櫓座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出し書院」が造られた。出入口は周囲に表門(一ノ門)、裏門、埋門、帯曲輪門の四門に、御隅櫓に通じる切戸口があった。
※現地看板より

佐竹義堯公銅像


第12代秋田藩主佐竹義堯〈文政8年(1825)~明治17年(1884)〉は、近代秋田を築いた最後の藩主であり、戊辰戦争では、新政府方に属して戦いました。明治維新の激動期を生きた象徴的な人物です。

※現地看板より

八幡秋田神社


八幡秋田神社は、初代藩主佐竹義宣公始め、歴代の藩主を祀る、秋田県の有形重要文化財でありましたが、平成17年1月9日の放火により社殿を焼失しました。以来、皆々様のお力を戴きまして、平成20年12月に竣工することができました、これも偏に皆様の御陰様と心より感謝をし、厚く御礼を申し上げます。又、社殿の再建は成りましたが、皆様より尚一層のご理解、力強いご支援、ご協力を賜ります様、切にお願い申し上げます。
※現地看板より

御鷹屋御番所跡


久保田城御隅櫓


本丸北側の高台にあり、見張り場と武器庫の役割を担っていた建物を、姿勢00周年事業として、平成元年に建設されたものです。

※現地看板より

眺望


多門長屋跡

埋門跡


埋門は、本丸の背面(西側)に設けられ、土手を切って出入口とし、その上に多門長屋を渡した一種の隠し門である。門は西曲輪の兵具蔵に通じており、攻撃や防御また緊急避難的な役割をはたしていたと考えられる。

※現地標柱より

帯曲輪門跡


本丸の奥から二の丸の土門方向へ通じる門であり、本丸の下の帯曲輪に続いている。門の構造等は不明であるが、絵図等の記載では、土塁の上を巡る板塀に連結される形に描かれている。

※現地標柱より

裏門跡


二の丸から本丸へと続く門のひとつで主に夜間の出入りの際に使用した重層門の跡。2度の大火で焼失し、そのつど再建され、明治13年の本丸の大火では焼け残ったが、移築・改修されて、鱗勝院(旭北栄町)の山門になったと伝えられている。現在は柱を支えた礎石が残っている。

※現地標柱より

胡月池


茶室「宣庵」


手水鉢


庭園に設置された舟形の手水鉢は、文禄の役の際に加藤清正が朝鮮から持ち帰り、大阪城内にあったものを石田三成のはからいで佐竹東家に贈られたと伝えられています。

※現地看板より


城郭周辺地図

秋田県秋田市千秋公園


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