城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | ヤマガタジョウ |
別称 | 霞城、霞ヶ城、吉字城 |
スタンプ設置場所 | 最上義光歴史館 09:00-16:30(月曜定休) 山形市郷土館 09:00-16:30 二ノ丸東大手門櫓 09:00-16:30 |
曲輪配置 | 輪郭式 |
城郭種類 | 平城 |
築城者 | 斯波兼頼 |
築城年 | 1356年 |
廃城年 | 1871年 |
主な城主 | 最上氏、鳥居氏、堀田氏、秋元氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 135.2 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | 大手門(万松寺)、御殿(宝光院) |
復元建造物 | 二の丸東大手門、大手橋、本丸一文字門 |
遺構 | 石垣、空堀 |
現状 | 霞城公園 |
駐車場 | 霞城公園駐車場 |
最寄り駅 | JR 山形駅 |

概要・現地案内板
霞城公園は、市街地のほぼ中央に位置し、約35.9haの面積を有する山形城跡の公園です。
延文元年(1356)に羽州探題として山形に入部した斯波宗頼(最上家初代)が築城したと伝えられ、現在の城郭は第11代城主最上義光(1546~1614)が築いたものが原型とされています。
本丸・二ノ丸・三ノ丸の三重の堀と土塁で囲まれた、全国有数の規模を持つ輪郭式の平城で、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れたことから「霞ヶ城」とも呼ばれていました。
現在残っている二ノ丸の堀や土塁・石垣は、最上家改易後、元和8年(1622)に城主となった鳥居忠政により整備されたと伝えられています。
昭和61年に国の史跡指定を受け、平成18年には「日本100名城」に認定され、現在は桜と観光の名所になっています。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
城址碑

本丸一文字門
本丸一文字門は本丸の大手にあたり、櫓門・高麗門・枡形全体の呼び名です。櫓台石垣の上に載るのは櫓門形式の一文字櫓で、櫓の形が漢字の「一」に見えることからついた名前です。大手橋を渡り高麗門をくぐると石垣・土塁に囲まれた「枡形」に入ります。本丸に入るには右に折れ櫓門を通らなければならず、敵の侵入を食い止める城の工夫のひとつです。

大手橋は幅約5.5m・長さ約21.8mです。復元にあたり発掘調査により出土した木材を樹種鑑定し、出土材と同じ材質で橋脚・高欄(スギ)、橋板(クリ)、桁・梁(マツ)を使っています。また、高欄の外観は二ノ丸東大手門の古写真を参考にしました。本丸一文字門の復元は平成8(1996)年の発掘調査に始まります。明治時代に埋められた本丸の姿を復原するために、枡形・櫓台石垣の修理を平成10~15年、大手橋の復原が平成17年に行われました。
※現地看板より

高麗門

枡形

一文字門石垣

本丸跡

本丸御殿跡

西側櫓台石垣

東側櫓台石垣

本丸御殿の井戸跡
江戸時代以前の井戸は、主に木組み井戸や素掘り井戸(石組や木組みなどの構造物を持たない井戸)が主流でしたが、江戸時代に入ると石組井戸が盛んに作られるようになります。当時の地下水位は現在よりはるかに高く、1~3mほど地面を掘ると水が湧いていたと考えられています。この湧き水を生活用水として利用するため、井戸が掘られました。
※現地看板より

礎石


本丸南堀

石垣の崩落
本丸堀の発掘調査を実施したところ本丸一文字門西側櫓台石垣前の堀底から、石垣石材が大量に出土しました。これは江戸後期の絵図で櫓台石垣の一部に「御櫓崩」との表記があることから、その崩落に由来する石材と考えられます。出土した石材には、矢穴・割面があり、控え(石材の奥行き長)が比較的長い大振りなものが目立ちます。おそらく、石材の多くはひろわれずに埋め均されたと考えられます。

また、石材の周囲からは極めて大量の瓦が出土しました。鯱瓦・鬼瓦などは実際の櫓の姿を推測する貴重な手がかりとなるでしょう。本丸堀跡の整備においては石垣崩落という歴史的事実を後世に伝える目的で、現況の展示としています。
※現地看板より

本丸大手橋


安政二年の石垣石

朱書

矢穴

修羅

最上義光公勇戦の像

二ノ丸東大手門






二ノ丸堀




二ノ丸西不明門跡



二の丸南大手門跡



2018/9最終訪問
城郭周辺地図
山形県山形市霞城町
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