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陸奥国 二本松城 [ NIHONMATSU CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA- 

項目内容
ヨミカナニホンマツジョウ
別称霞ヶ城、白旗城
スタンプ設置場所にほんまつ城報館 09:00-17:00
二本松駅内観光案内所 09:00-17:30
曲輪配置梯郭式
城郭種類平山城
築城者畠山満泰
築城年室町時代
廃城年1872年
主な城主畠山氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏
指定史跡国指定
標高333.8 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物茶室(洗心亭)、偕楽園(好文亭)
復元建造物箕輪門、附櫓
遺構石垣、空堀
現状
駐車場乙森駐車場
最寄り駅JR 二本松駅


概要・現地案内板

二本松城跡は、15世紀前半、畠山氏の居城として築城されたといわれています。
その後、伊達・蒲生・上杉・松下・加藤と城主がかわり、寛永20年(1643)に丹羽光重が二本松藩10万700石で入城し、以降、丹羽氏の居城として明治維新を迎えました。
発掘調査によって、各時代の遺構が見つかり、さらに近世城郭への大規模な改修が寛永4~20年(1627~1643)の加藤氏時代に行われたことも判明しました。
二本松城跡は中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれ、かつその変貌がよくわかる、東北地方を代表する城跡です。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


駐車場


千人溜


二本松少年隊


慶応4年(1868)7月戊辰戦争の最中、二本松藩大半の兵力が西軍を迎え撃つべく出陣し、城内・城下は空虚同然であった。この緊迫した状況の下、少年たちの出陣嘆願の熱意に、藩主は止むなく出陣許可を与え、13歳から17歳までの少年62名が出陣。7月29日、城内への要衝・大壇口では隊長木村銃太郎率いる少年25名が果敢に戦ったが、正午ごろ二本松城は炎上し落城した。

この二本松少年隊群像は、大義のため戦う隊長及び少年隊士と、我が子の出陣服に藩主丹羽氏の家紋・直違紋(すじかいもん)の肩印を万感迫る思いで縫い付ける母の像を現したものである。まお、この地は「千人溜(せんにんだめ)」といい、藩兵が集合する場所であり、少年隊士もここからそれぞれの守備地に出陣した。
※現地看板より

箕輪門


箕輪門は二本松城=霞が城の正門にあたり、江戸初期城主丹羽光重の建造である。城下箕輪村山中にあった樫の大木を主材としたのでこの名がある。聳え立つ石垣と累々たる城壁城門は10万石大名の威容を示していた。戊辰戦争によって廃燼と帰したが再建の声高まり、年余の歳月と2億円の費を投じて昭和57年8月に完成をみた。
※現地看板より

箕輪門のアカマツ


箕輪門北側の石垣上に植えられているアカマツの古木群で、四本は三ノ丸への石段の南東に段状に一列に並び一本は石段の裾右側の石垣上に立っている。目通り幹囲が2~2.5メートル、樹高9~12メートルあり、樹冠が傘状をしているのが多く長い枝を石垣下に垂れている。これらの松は、土塀に代えて石垣上に植えられたものと思われ、明暦3年(1657)に箕輪門周辺石垣の破損を修理した記録などから推察すると樹齢は350年を越える。

保存状況が良好で樹勢は旺盛である。個々の木が美しい樹形を持つとともに全体が周囲の石垣や石段とよく調和し、見事な景観を呈しており、二本松城跡石垣の松の大木として高い価値がある。
※現地看板より

三ノ丸


丹羽氏が居住した御殿跡で、寛永初年(1630年頃)に加藤氏が中世城館を近世城郭に改変したことにより、上下2段に分かれていることが特徴である。三ノ丸南辺の高石垣も同時期で盛土による石垣であるため排水処理に配慮し、平場地下には幅1mの石積みの排水溝や吐水口へ続く集水桝などが敷設されている。

戊辰戦争によって城内の建造物が焼失した後、明治6年(1873)から二本松の近代化を支えた「二本松製糸会社」(後の「双松舘」)として利活用された。
※現地看板より

本町谷御庭(庭園)


智恵子の藤棚


元二本松町長今泉修二氏が自宅の庭にあったものを寄贈したもので、これは智恵子の生家の庭にあった藤の木です。
※現地看板より

七ツ滝


るり池


洗心亭


二本松藩士自尽の地


城内路


会津領時代に城代がおかれた松森舘と新城舘との連絡路。虎口(出入口)状の遺構が残っていて、畠山時代から使用された可能性が高い。
※現地看板より

日影の井戸


千葉県印西市の「月影の井」、神奈川県鎌倉市の「星影の井」と並び「日本の三井」と称されています。これは、「月影の井」縁起のなかの「清水湧出して四時渇水することなし、伝言、大菅豊後守の水行場と又月かげの井と称して、鎌倉星の井、奥州二本松の日の井と共に日本三井一なりと言う」に由来しています。昭和の初期頃までは俗称で「底なし井戸」と呼ばれ、また古老の伝えでは「ひのゐ」、「蔭の井」とも称されていたといいます。

井戸の深さは約16メートルあり、さらに井戸底の岩盤をえぐって北方に約14メートル達していますが、今でも豊富な湧水を溜めています。
※現地看板より

本丸下南面大石垣


蔵屋敷


乙森の東下方の平場で会津領時代や丹羽氏時代の絵図に「蔵(倉)屋敷」と記されている。見張り台として使用された掘立柱の櫓と塀跡や、攻防に優れた礎石立ちの屏風折れの塀跡などが確認され、本丸へ続く城内路に面していた平場であるため、防御上、重要な役割を果たしていたことがわかる。
※現地看板より

天守台下西面二段石垣


本丸


西櫓台


搦手門跡


この場所は近世の搦手門があった場所です。城の正面を大手と呼ぶのに対して、裏手を搦手と呼びます。平成13年度発掘調査の結果、新旧2時期の門跡が確認されました。第1期は掘立柱の冠木門(冠木と呼ぶ横木を2本の門柱の上方につらぬき渡してある門で、屋根はない。)で、現存する礎石のやや南側で発見されました。

直径30㎝ほどの柱の根元が残存しており、栗材と鑑定されました。この柱根は、保存処理が施され当市歴史資料館で保存・展示されています。なお、近世以前の様子を描いた絵図「会津郡二本松城之図」では、屋根のある門が描かれています。第2期は現存する礎石の時期で、この礎石は据えられた当時のまま残されていることが確認されました。柱間は3.2mあり、扉のためのホゾといわれる穴があることから、1枚約1.4mの扉のつく高麗門である可能性が高いと考えられます。

両側には門台石垣が築かれ、その石積み様式から寛永初期の門跡であることがわかりました。これらのことから、蒲生氏時代に掘立柱であった門を、加藤氏が石材を用いて整備したことが明らかとなりました。
※現地看板より

新城館


二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。慶長6年(1601)~寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のときで、二城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城舘」はその西城にあたります。平成10・11年度の発掘調査の結果、大規模な掘立柱建物跡や平場を取り囲む掘立柱塀跡も確認され、

中世から近世後半期にかけて繰り返し建物等が建て替えられ、利用されていたことがわかりました。また、平場の南端には直径約4m、深さ約2mの大きな穴が発見され、人為的に大量の焼土と炭化材が捨てられていました。出土遺物から、カヤ葺屋根で土壁の木造建造物が火災にあい、この残骸を整理した穴とみられました。古い記録に天正14年(1586)の畠山・伊達両氏の二本松城攻防戦の末、畠山氏が本城(本丸)を自ら焼いて開城した後、入城した伊達成実がその後始末したとあり、この穴がその痕跡である可能性が高いと判断されました。

これらのことから、新城舘は天正期には本城的機能を果たしていた重要な施設であったことが判明し、記録の少ない中世二本松城の姿の一端が明らかになりました。
※現地看板より

智恵子抄詩碑


2017/8最終訪問


城郭周辺地図

福島県二本松市郭内


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