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出羽国 秋田城 [ AKITA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナアキタジョウ
別称出羽柵
スタンプ設置場所秋田市立秋田城跡歴史資料館 09:00-16:30
史跡公園管理棟 09:00-16:00(12月~3月閉館)
曲輪配置
城郭種類政庁・柵
築城者不明
築城年733年
廃城年11世紀
主な城主
指定史跡国指定
標高48.8 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物政庁東門、外郭東門、水洗厠舎跡
遺構塀跡
現状史跡秋田城跡
駐車場秋田城跡駐車場
最寄り駅JR 土崎駅


概要・現地案内板

秋田城は奈良時代から平安時代にわたっておかれた、日本最北端の大規模な役所で政治、軍事、文化の中心地でした。
天平5年(733)に、秋田村高清水岡に造られた当初は「出羽柵」と呼ばれ、やがて天平宝字4年(760)年ころ秋田城と呼ばれるようになりました。
秋田城跡は、昭和14年(1939)9月に90ヘクタールが国の史跡に指定されました。
昭和47年(1972)から発掘調査を開始し、現在も継続中です。

※現地案内板より


城犬のおいど 攻城記録


駐車場 


城内東西大路


この道路は、政庁から外郭東門に至り外郭外側までほぼ真っすぐに延びていました。ここが道路だと分かったのは、固く締まった道路面や、東西方向の素掘りの溝である側溝などが発掘調査で検出されたからです。その発掘調査から、6時期の変遷があったと考えられる道路幅は、奈良時代には12m、平安時代には9mありました。今回復元対象とした道路は奈良時代のものです。

また奈良時代の道路周辺からは、外郭東門周辺部と同様に周囲に遺構が認められないことから、周辺の利用に関しては建物を建てることができないほどの制約があったと考えられます。なお平安時代以降については、政庁にほど近い道路北側が恒常的に鍛冶等の生産施設として利用されていたことが、発掘調査から分かっています。
※現地案内板より

政庁第Ⅰ期
(733年~770年頃)


政庁は、秋田城の前身の「出羽柵」創建とともにその中心施設として造られました。政庁を造成するにあたっては、旧地形が北が高く南に傾斜していたため、平地部分を確保する目的で、南東部分に大規模な盛り土による整地を行っています。

また、政庁内の中心建物である正殿は、白壁で床には塼(古代の煉瓦)が敷き詰められていたことや、政庁を囲っていた築地塀の屋根には瓦が葺かれていたことが、発掘調査からわかっています。このように壮麗な政庁を造ったのは、在地の人々が見たこともないような中国様式を取り入れた施設を作ることで、律令国家の威信を示すという政策を色濃く反映した結果であると考えられます。
※現地案内板より

政庁第2期
(770年~800年前後)


この時期の区画施設は、崩壊した第Ⅰ期の北半分の築地塀を築き直し、その屋根も板葺きに変えています。また、南半分の築地塀は、布掘りとよばれる溝状の掘り込みの中に、材木を隙間なく立て並べた材木列塀に変えています。

この築地塀崩壊の一因には、降雪や凍結など秋田の厳しい冬の気象条件が関係していたものと考えられます。建物については、ほぼ同位置で建替えられた正殿や、東脇殿、目隠し塀を伴う北東建物のほか、新たに北西建物が建てられました。また、第3期の建物の柱穴の埋土に焼土・炭化物が入っていたことから、この時期の建物は、焼失した可能性があります。
※現地案内板より

政庁第3期
(800年前後~830年頃)


政庁域全体を再度整地するなど、全面的な改修を行った時期にあたります。また、全体を構成する建物の数が最も多くなるとともに、正殿や東脇殿の規模も変化するほか、改築された東脇殿には廂が付くなど主要建物の構造も変わっています。

区画施設についても、北側の築地塀をやめ、南側の材木列塀とともに、等間隔に柱を立て並べ、その間を横材でふさぐ一本柱列塀に変えています。さらに東門も、位置を東辺中央よりやや南側に変えるとともに、その構造も従来の棟門から、八脚門に変えています。
※現地案内板より

政庁東門


東脇殿 


正殿跡


正殿は、秋田城で最も重要な建物です。正殿や前面の広場では出羽国の政務や、定期的に貢ぎ物を持って訪れる蝦夷に対しての贈り物、宴も行われていたと考えられます。また、時には外国からの使節を迎えての儀式も行われていました。この建物は、ほぼ同じ場所で6回建て替えられています。最後の建物は石の上に柱を立てる礎石式の建物ですが、それ以前の建物は直接地面に柱を埋め立てる掘立式の建物でした。
※現地案内板より

北東建物跡


ここでは5回建替えられた建物跡が見つかっています。Ⅰ期~Ⅲ期の建物はいずれも東西の方向に長く、Ⅱ期では、東西両側に壁で仕切られた部屋があり、建物の南には、目隠し塀が付いていました。壁で仕切られた部屋のある役所の建物は、後殿や脇殿に見られますが、分室化されているのは、建物の機能や使われ方に関係があるものと考えられます。
※現地案内板より

東大路


秋田城の外から東門を通り、政庁に向う重要な道路です。素掘りの側溝の跡が発見されていますが、それから推定すると道路幅が12mで、今の道路と比べても、立派なものです。ただ、敷石などが発見されていないので土の道路だったと考えられます。
※現地案内板より

模型


外郭東門


平成元年度の発掘調査で発見された奈良時代の外郭東門を復元したものです。秋田城の東門の特徴は、軒先につく軒瓦がないこと、部材をつなぐところに舟肘木を使用しているところです。木材の仕上げは槍の穂先のような槍鉋という古代と同じ工具で削り、また、表面は丹土を塗っています。
※現地案内板より

外郭築地


門の横に続いている土壁は築地とよばれています。土を人の手でつき固めながら積み上げる版築という古代と同じ工法で造られています。復元した築地の端は途中で切れていますが、実際はずっと続いていて秋田城の回りを囲んでいました。また、築地の手前にある深さ7mの土取り穴は、築地を積む土を取ったときにできた穴で、後にゴミ捨て場として使われ発掘時には多数の漆紙文書、木簡それに猪、馬、鯨、鳥、などの骨が発掘されました。
※現地案内板より


前方の沼は、縄文時代以前に飛び砂によって沢がせき止められてできた自然の沼を復元したものです。沼は、城内でおこなわれた大祓などのまつりで使われた人形、斎串、矢羽根、人面墨書土器などを流す神聖な場として利用されています。また沼底の泥炭層からはスギ、マツ、イネなどの植物の花粉が多数発見され、現在とあまり変わらないようすであったことがわかります。
※現地案内板より

井戸


覆屋の中の井戸は、平安時代に作られたものです。構造は厚い板を3~4段井籠組にし、その外側に板を縦に2~3重に立て並べた簡単なものです。板材には、井戸と関係のない切り込みがあることから再利用の材料であることがわかります。周辺の地形は、平安時代も現在と大きな変化がないことから、当時から浅い井戸だったと思われます。

また水は古代から涸れることなく今でもこんこんと湧き出ています。
※現地案内板より

鵜ノ木地区


鵜ノ木地区は、秋田城跡を巡る東辺外郭築地塀の外側にあたり、発掘調査の結果、掘立式の建物跡や井戸の底からは、高清水の地に出羽柵が遷された翌年にあたる「天平6年月」(734)の木簡や「(天平)勝宝5年調米」(753)と書かれた納税を示す木簡、また沼を埋めた整地土からは「…玉寺」と書かれた土器も発見されています。鵜ノ木地区は、これらの遺構や遺物などから奈良時代には重要な役所跡、また平安時代のある時期には寺としても使われたことがうかがわれます。
※現地看板より

井戸跡


古代水洗厠舎跡


8世紀後半に作られた厠舎で建物のなかに3基の便槽が並び、外には約6メートルの木桶とその先端には沈殿槽が作られています。

建物内 


便槽


用を足した後は、甕から水を汲みんで流します。
※現地ガイドさんによる実演です。

竪穴式住居跡


秋田城跡では、奈良・平安時代の竪穴式住居跡が300軒以上発見されていますが、これはもっとも古い竪穴式住居跡の1棟です。床面からは、煮炊き用のカマドや甕、食器類が見つかりました。しかしこの竪穴式住居跡は、建っていた時期や場所から一般の住居としてではなく、建物造営のための作業小屋か、管理のための宿舎として使用されたと推定されます。

ここでは地表から下の部分を、焼失住居跡等をてがかりに復元し表示しています。
※現地案内板より

2024/7最終訪問


城郭周辺地図

秋田県秋田市寺内大畑


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