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常陸国 水戸城 [ MITO CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナミトジョウ
別称馬場城、水府城
スタンプ設置場所弘道館料金所窓口 09:00-17:00
曲輪配置連郭式
城郭種類平山城
築城者馬場資幹
築城年建久年間
廃城年1871年
主な城主大掾氏、江戸氏、佐竹氏、徳川氏
指定史跡県指定
標高29.8 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物弘道館、薬医門
復元建造物大手門、坂下門
遺構土塁、空堀
現状史跡水戸城跡
駐車場弘道館駐車場
最寄り駅JR 水戸駅


概要・現地案内板

水戸城は、建久4年(1193)、源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、大掾に任ぜられたのに始まる。
以後、馬場大掾氏は9代約240年間、下の丸の辺りに居館を構えた。
次いで那珂道辰の子孫、河和田城主江戸道房が大掾満幹の留守に水戸城を占拠。
それ以来7代、165年間、江戸氏が支配した。
当時は内城、宿城と浄光寺の三つの曲輪より成っていた。
天正18年(1590)太田城の佐竹義宣が江戸氏を討伐、本拠とした。
佐竹氏の時代は、慶長7年(1602)義宣の秋田移封まで僅かに13年、この間、城内を古実城と称して本丸化し、宿城を二の丸とするなど曲輪を整えた。
城の出入口も東側から西側に移し、橋詰門を建て、また二の丸に大手門などを造った。
17世紀初め、甲府の武田信吉や徳川頼宣が一時封ぜられたが、慶長14年(1609)、家康の11子頼房が城主となり、その後、徳川氏は江戸定府ながら光圀、斉昭を経て昭武まで約260年間、35万石の水戸領を治めた。
明治4年(1871)廃城。
徳川期の本丸には兵器庫、二の丸には三階櫓があった。

※現地高等学校看板より


城犬のおいど 攻城記録


徳川斉昭公像


三の丸大空堀


三之丸西側のこの空堀跡は、台地を掘削して造成された水戸城外堀で城内と町屋地区とを区画する重要な役割を持っており、古絵図を見ると空堀であったことがわかる。また、水戸城の塁壁は全体が土塁と土の堀で、石垣は構築されなかった。

ただし、家康や三代将軍家光の頃に、二度ほど石垣構築の命が出され、一部石材の準備もなされたが、実現を見なかったと伝えられている。今に残る三之丸西側の空堀跡は、往時の水戸城を偲ばせる貴重な史跡であり、春の桜花や秋の黄銀杏の彩りも見事な場所である。
※現地看板より

徳川慶喜向学の地碑


弘道館正門


長持


長持は、江戸時代以降、衣服や調度などの保管や運搬に使われたものです。この長持は、将軍職を辞した徳川慶喜が慶応4年(明治元年、1868)4月に上野寛永寺から水戸に下り、弘道館の至善堂で謹慎していた当時に使用したものと伝えられています。
※現地説明板より

大手橋


水戸学の道


水戸学は、水戸藩主徳川光圀公(水戸黄門)の「大日本史」編纂が始まりとされる。江戸時代後期には徳川斉昭公らが、天皇のもと国全体で諸外国に立ち向かう「尊王攘夷」論を示した。藩を越えて国家的視野から様々な課題に対応する理念が、明治維新や近代日本の形成に大きな役割を果たした。
※現地看板より

水戸城三階櫓跡


三階櫓は、水戸藩の初代藩主である徳川頼房が、寛永年間に水戸城の大整備(1625~1638)を行った際に、二の丸の南崖近くに建てたもので、水戸城にとっては天守に匹敵する建造物である。明和元(1764)年12月の火災で全焼したが、再建時に屋根を瓦葺きとし、鯱を飾った。

外観は三重だが内部は5階建てというこの美しい建造物を、水戸の人々は「三階櫓(さんがいろ)」と呼んで誇りとしていた。明治5(1872)年、何者かによる放火で水戸城は火災に見舞われたが、三階櫓は焼失を免れた。その後も長く水戸のシンボルであったが、昭和20(1945)年8月の水戸空襲で焼失した。
※現地看板より

二中見晴らし台


天覧記恩之碑


二の丸御殿跡


水戸城二の丸には、藩の政務の中心施設である御殿が置かれた。初代藩主徳川頼房による寛永の水戸城大整備(1625~1638)にあわせて建設された。御殿の絵図面をみると、およそ50数間四方の平屋建てで、水戸城最大の建造物であったことがわかる。平成22(2010)年の発掘調査で、御殿に伴う排水路などが発見され、御殿の遺構が地下に保存されている事が判明した。
※現地看板より

杉山坂


杉山坂は、寛永2(1625)年に初代藩主徳川頼房が行った水戸城大改修により整備された坂です。この坂は、藩主御殿のあった二の丸曲輪に通じる重要な通路でありました。坂の中程にやらい門があり、その門をくぐって坂を上ると杉山門がありました。またやらい門と杉山門の間には、下乗札と下馬札が立っていました。やらい門の脇にあった桜は、下馬桜と呼ばれていました。
※現地看板より

杉山門


杉山門は、二の丸の北口にあたり、坂を下りると杉山通りに出ました。門の内側には、敵の侵入を遅らせるため、土塁で枡形が形成されていました。「水戸城実測図」によれば、門の規模は4間1尺といわれています。この周辺は大きな杉林になっていました。2代藩主徳川光圀が、紀州産の熊野杉を取り寄せて植えたと伝えられています。
※現地看板より

橋詰門


2018/8最終訪問


城郭周辺地図

茨城県水戸市三の丸


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