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陸奥国 亘理城 [ WATARI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナワタリジョウ
別称亘理要害、臥牛城
スタンプ設置場所
曲輪配置連郭式
城郭種類平山城
築城者亘理元宗
築城年天正年間
廃城年1870年
主な城主亘理氏、片倉氏、伊達氏
指定史跡なし/不明
標高17.9 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構土塁、空堀
現状亘理神社
駐車場付近に駐車場なし
最寄り駅JR 亘理駅


概要・現地案内板

この地に居を構えた亘理氏が天正19年(1591年)涌谷に移った後、片倉小十郎景綱がここに入った。
慶長7年(1602年)片倉氏は白石城に移り、居城を引き継いだ伊達成実は亘理要害の改修を行い又城下町を建設し、亘理郡と相馬郡の一部を治めた。
通称の臥牛城は賀名であって、地形が牛の臥せた形に似ているのがこの名のおこりともいわれている。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


亘理神社


鳥居


亘理要害(臥牛城)図


裏門方面


道路の向こう側に見える平地も本丸の一部です。
道路で分断されています。
ここより更に東側にあるヨークベニマル亘理店のある場所が二の丸跡です。

詰門方面


本丸跡


ここは、江戸時代に亘理要害(臥牛城)の本丸があった場所である。本丸とは、城や要害の中枢となる範囲・曲輪(くるわ)で、周りには内堀が巡らされ、堀の内側には石垣が、外側には土塁が築かれていた。本丸には20棟以上の建物が建っていたとみられるが、明治維新後まもなく全て取り壊され、資料も残されていないため、規模や配置などは不明である。

本丸の南には詰門が、更に南には正門の大手門があったほか、北には裏門と大所門があり、発掘調査により詰門に至る通路と裏門遺構の一部が発見されている。東部を南北に通る町道で隔てられた台地も本丸の一部であり、さらにこの東側には二の丸が置かれ、外堀や土塁が巡らされていた。明治元年(1868)9月、戊辰戦争に敗れた仙台藩と新政府軍との降伏式がこの場で行われた。

亘理要害は、初代領主伊達成実から戊辰戦争後に14代邦成が北海道へ移住するまでの約270年間、亘理伊達家の本拠地とされた。町民からは「御館(おたて)」と呼ばれ親しまれている。
※現地看板より

亘理神社の碑


亘理伊達家初代成実は、伊達一門である伊達実元(政宗の祖父晴宗の弟)の長男として、永禄11年(1568年)信夫郡(現福島市郊外)大森城に生まれた。母は伊達晴宗の娘である。17歳の時父の跡を継いで、1歳年上の伊達家当主政宗公に仕えた。若くして武勇の誉れ高く、天正13年(1585年)の人取橋の合戦には、劣勢だった政宗軍の形勢を逆転させた。

以後、摺上原の戦い等、戦いのたびに功績をあげて、「炎の闘将」の名を天下にとどろかせた。豊臣秀吉時代、政宗が「逆心」の疑念をうけた時には、人質となって伊達家のために尽くしたものの、一時政宗と不仲になり高野山にこもった。しかし、関ヶ原の戦いがおこると急ぎ帰り、上杉方白石城を攻め、その功績により晴れて慶長7年(1602年)亘理領主となった。その後、城下町亘理を建設する一方、新田開発を盛んに行って領内を治めた。同時に仙台藩主政宗公の片腕として、数々の重責を果たした。

また、成実は、深い教養を備えた人物であった。彼の著わした「成実記」は、政宗公が仙台藩を築いた時期の歴史的記録としても貴重である。政宗公の9男宗実を跡継ぎとして迎え、終生、仙台藩への忠誠を貫き、その安泰に尽くして、正保3年(1646年)79歳で生涯をとじた。明治12年、成実は亘理神社に祀られ(神号 武早知雄命)、同30年、成実の生涯を刻んだ碑がここに建立された。
※現地看板より

2024/7最終訪問


城郭周辺地図

宮城県亘理町字舘南


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