城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | タカダジョウ |
別称 | 鮫ヶ城、関城、高陽城 |
スタンプ設置場所 | 上越市立歴史博物館 09:00-17:00 |
曲輪配置 | 輪郭式 |
城郭種類 | 平城 |
築城者 | 松平忠輝 |
築城年 | 1613年 |
廃城年 | 1871年 |
主な城主 | 松平氏、稲葉氏、榊原氏 |
指定史跡 | 県指定 |
標高 | 12.8 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | 三重櫓 |
遺構 | 土塁、空堀 |
現状 | 史跡高田城跡 |
駐車場 | 高田城址公園第1~8駐車場 |
最寄り駅 | JR 高田駅 |

概要・現地案内板
高田城は慶長19年(1614)に越後太守松平忠輝の居城として築城されたもので、石垣や天守はなく、御殿を中心に広大な城郭で構成されている平城です。
築城は、幕府の命により国役普請で、仙台藩主伊達政宗ら13大名によって行われ、関川・青田川・儀明川の流路を変え、天然の地形を効果的に利用して築城されました。
陸軍第十三師団が入城する際、土塁の大半を崩して堀を埋める工事が行われたことによって改変されているものの、三重櫓や極楽橋など復元され、現在は高田城址公園として市民の散策や憩いの場となっています。
城犬のおいど 攻城記録
大手橋跡
この辺が大手桝形門のあった所です。外堀(大手堀)に架かる大手橋を渡ると、内側に虎乱郭と名付ける城内への表玄関口があり、大手門の桝形がありました。桝形とは出入口になる所を塁で四角に囲って区画し、防備を固めた施設です。この桝形に門を2か所設けて出入りしました。外側の門を一の門(高麗門・蹴出門とも)、内側の門を二の門と呼びます。

二の門は二重櫓の頑丈な造りで「大手門」と呼び城を代表する門でした。高田城の桝形大手門は、城郭全体から見て南西方向にあり、周辺に広大な外堀、デンガク堀、濁堀(中堀)や三の丸に囲まれ、防御態勢万全の大手門でした。土塁で囲まれた桝形内の広さは、古絵図によると南北20間、東西15間程あったようで、かなり大きなものでした。ここにある「大手門趾」の石碑は高田師範同窓会によって建てられました。
※現地案内看板より

極楽橋
極楽橋は、徳川家康の6男松平忠輝が慶長19年(1614)、高田城を建築した際に、二の丸から本丸に通じる木橋として設けられました。明治41年(1908)には、高田城に入城した陸軍第十三師団によって土塁が切り開かれ堀を埋め立てて陸続きとなった結果、極楽橋はその姿を消しました。現在の橋は、高田公園開園50周年及び市制30周年を記念して平成14年に復元されたものです。

極楽橋の復元にあたっては、古文献、史料及び発掘調査等により可能な限り旧状態を再現するよう努め設計を行いましたが、すべてを木造とし旧形態を忠実に復元することは、安全性、構造耐力、法規制、維持管理等の面からさまざまな問題が生じるため、目に見えない構造の根本となる部分は鉄筋コンクリートやPHCパイルを使用した近代的な工法を採用し、直接目に見えたり、手に触れる部分は木材や石などを使用した伝統的な工法を採用し、復元を行いました。

復元工事を行う前に行った発掘調査では3列に整然とならんだ極楽橋の橋脚が見つかっています。調査によって発見された橋脚は6本から7本の木がまとまって見つかっています。
※現地看板より

内堀
内堀は本丸を取り巻いている堀で、本丸を防備する施設です。本城堀ともいわれ、薬研堀(V字型に勾配をつけて掘削した堀)でした。今、残っている内堀の規模は、堀幅58~36メートル、深さ平均で5メートル程ですが、石垣が無かったので長い年月に土塁の土や、落ち葉などにより、当時よりもかなり浅くなっていると考えられます。

また堀の深さは一定ではなく、土塁の特徴に比例し、特に隅櫓や屈曲土塁のある所は深くなりますが、これは急を要した突貫工事のためでしょうか。内堀の総延長は、本丸側(内側)で約1300メートル程で、ほぼ当時の面影を残しており見どころの一つになっています。

本丸御門(南門)跡
高田城の本丸郭(城の中心部で城主の生活したところ)は、静真郭御殿と呼ばれました。現在の広さは東西215メートル、南北228メートルあります。形状は鬼門除けや内桝形門などの関係で複雑でしたが、土塁の入隅・出隅・屈曲などを活用して御殿配置がなされました。桝形土塁のなくなった状態よりも、御殿用地はかなり狭かったと思われます。鬼門とは、鬼の出入りする方角とされる北東の称で不吉とされ、

城の場合は角を潰して変形にしました。高田城は大がかりな鬼門除け工事を行いました。本丸の虎口(出入口)は、本城御門(南門)東不明門(東門)・北不明門(北門)の三か所ありました。南門と東門は内桝形門で、北門はカギ形門でした。現在の西側からの入口は明治以降に切り開かれたものです。桝形とは、出入口になる所を塁で四角に囲って区画し、防備を固めた施設です。郭の内部に設ければ内桝形と呼ばれました。高田城の本丸御殿は、江戸幕府の天下普請にふさわしい立派な御殿でした。
※現地看板より

本丸跡
高田城は慶長19年(1614)、高田の菩提が原(ぼだいがはら)の地を主郭に徳川家康の6男松平忠輝が築城した75万石(諸説あり)の大規模な近世城郭でした。本丸は内堀(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40~50m、平均水深5m程あり、塁は高さ10m前後で総長約1000mありました。石を用いらず2ヶ所の内桝形門と1ヶ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁でした。

現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、この中に城主の御殿や多くの建物が存在していました。天守を造らず、塁上には南西隅の三重矢倉を「御三階」と呼んで城のシンボルとし、他に多門櫓2棟、矢倉台1ヶ所、御茶屋台1ヵ所などが設けられていました。この高田城も、寛文5年(1665)の高田地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1847)及び享和2年(1802)の火災等にあい、その都度規模が縮小されましたが、明治3年(1870)の火災によって再び焼失し、以後再建されませんでした。

高田城は、慶長19年(1614)から8家18代の城主が交替し、257年間続きましたが明治4年(1871)にその幕を閉じました。明治41年(1908)の陸軍第十三師団入城の際に土塁が切りくずされ城跡は変形しましたが、基本的な原形は保存されており、新潟県の史跡に指定されています。
※現地看板より

三重櫓管理棟

三重櫓
高田城三重櫓は、本丸南西隅の土塁上に構築され、当時は「御三階櫓」と呼ばれて天守閣にかわる城の象徴になっていましたが、廃城後、明治19年(1886)頃取り壊されました。平成5年に復元されたこの三重櫓は、資料調査と発掘調査の成果を充分にふまえて再建されたものです。

内容は三層三階で、東西5間(約9.1m)、南北6間(ヤク10.9m)を基底とし、高さ15m程で外観は御殿風造りを基調としています。屋根は1層・3層が入母屋、2層が寄棟形式で、1層・3層に切妻屋根の出張りを付けています。1階・2階は展示室で、3階は展望室になっています。櫓の東側に付随して50mの塀も同時に再建されました。
※現地案内看板より

入口




展望室からの眺望


本丸土塁
本丸郭を囲む土塁は、内堀の堀削土を盛り上げて築きました。土塁の総長(頂面中央部)で870メートルあり、現状4ヶ所の入口切込みを含めた総長は約1000メートルになります。塁に石を用いず、門口を3か所挟んだ全面囲み土塁でした。(現状の西側入口は明治以降に切り開いたものです。)幅は、頂面で10~3メートル、底面でおよそ30メートル、高さは約10メートルで、北側から北東鬼門除け屈曲土塁は特に高くなります。

土塁外側の犬走り(削平地)も部分的に確認でき、当時は外周全面に存在したものと推定されます。全体として本丸周辺土塁は、不斉四角形の特色を呈しますが、内堀とともに雄大な姿を今に残しています。
※現地看板より



小林古径邸
「小林古径邸」は、上越市出身の日本画家・小林古径画伯(明治16年~昭和32年)の居宅で、東京都南馬込にあったものを移築・復元したものです。


二の丸

二の丸土塁
慶長19年(1614年)に築城された高田城は「石垣の無い平城」でした。石垣のないまま築城された理由として、①当地域では築城に必要な量の石材を求めることが難しかったこと、②大阪冬の陣の直前という時期であり、穏やかではない世情から工事を急いだこと、などの理由が挙げられています。石垣がないかわりに、関川の旧流路を利用した大規模な堀(ほり)を作り、その内郭側に土塁を積むことで城の防御としています。

明治になって高田城は廃城となり、明治41年には、陸軍第十三師団が入城しましたが、陸軍は少しでも用地を広くしようと土塁を崩し、堀を埋め立てました。現在、本丸以外の土塁については、この場所を残すのみとなっています。
※現地看板より

陸軍第十三師団司令部営門跡
高田城は、慶長19年(1614)、徳川家康の6男、松平忠輝が築城し、本丸・二の丸・三の丸をあわせ、約19万坪(約58ha)の敷地がありました。しかし、度重なる地震や火災の被害を受け明治4年(1871)に廃城され、城や池は陸軍省の所有となりました。明治23年(1890)に政府は軍事費を得るため高田城の売却を決め旧藩主である榊原家に払い下げることとなりました。

旧高田町は明治40年(1907)に第十三師団誘致のため、榊原家から城や池を買い戻し、陸軍に献納しました。陸軍第十三師団は明治41年11月に入城をはじめましたが、師団の入城の前に行われた大土木工事によって、土塁は崩され、堀の一部は埋められ、二の丸、三の丸の区画は無くなりました。本丸跡には師団の司令部が置かれ、二の丸には偕行社が置かれました。
※現地看板より

上越市立歴史博物館

外堀
外堀は、大きく蛇行する関川の旧流路を利用し造られました。総構えの西側は、旧儀明川の流路に青田川の水を引き込んで堀を作り、その時に掘り上げた土で土塁を盛ったと考えられ、南は現在の南本町2丁目の東に、新たに百間にわたる堀を掘って、青田川の水を引き入れて造ったと考えられます。

堀を造る工事は、高田城の工事の中でも最も労力と手間のかかる大工事でしたが、数千人とも一万人ともいわれる人夫が投入され、わずか4ヵ月余りで完成しました。明治41年に陸軍第十三師団が入城してくると、外堀はかなりの部分が埋め立てられ、現在に至っています。
※現地案内看板より

虎口
内桝形になっていた東側の虎口

東不明門跡
本丸の虎口は本城御門(南門)・東不明門(東門)・北不明門(北門)の三か所にありました。南門と東門は内桝形門で、北門はカギ形門でした。現在の西側からの入口は明治以降に切り開かれたものです。

三の丸
近世の城郭は方位の吉凶を占い、北東方向を鬼門、反対の南西方向を裏鬼門として塁の屈曲を複雑に構築しました。高田城では、この両方向を張り出して三の丸としたので、三の丸は2ヵ所に分かれました。両三の丸は共に二の丸との間を堀で区切り、外堀に面した部分に土塁を築きました。内部には大手口をはじめとした虎乱郭、陽戦曲輪、八幡丸の諸郭を中心に、城代屋敷、武具蔵などを置きました。

北東の三の丸は狐丸といわれ、城米蔵などがあり、通称を出丸と称しました。三の丸土塁には、それに付随して虎口3ヶ所、櫓台1ヵ所、門・木戸3ヶ所、櫓2ヶ所、さらに隠小口船通3ヶ所、隠小口1ヵ所などがありました。また南三の丸の土塁外(外堀の中)には、塁のない瓢箪曲輪(琵琶島・出島・中島・捨曲輪ともいい、現在の野球場)もありました。明治41年(1908)頃、土塁は崩され、二の丸との境堀は埋められ、その面影はありません。なお、この南三の丸には4代藩主松平光長時代に、光長の姪にあたる高松宮家の王女が住んだ二の宮御殿も建てられていました。
※現地看板より

百間堀
南本町に、百間堀の一部が残っています。

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