城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | ニラヤマジョウ |
別称 | 龍城 |
スタンプ設置場所 | - |
曲輪配置 | 連郭式 |
城郭種類 | 平山城 |
築城者 | 外山豊前守 |
築城年 | 1500年 |
廃城年 | 1601年 |
主な城主 | 北条氏、内藤氏 |
指定史跡 | なし/不明 |
標高 | 52.6 m |
城址碑 | なし |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | なし |
遺構 | 土塁、水堀、空堀 |
現状 | 史跡韮山城跡 |
駐車場 | 駐車スペース |
最寄り駅 | 伊豆急行 韮山駅 |

概要・現地案内板
明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。
永正16年(1519)早雲が没したのも韮山城である。
北条氏の本拠地が小田原に移った後も、韮山城は領国支配と防衛の重要拠点であった。天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、4万を超える軍勢に包囲されたが、約3か月にわたって持ちこたえ、小田原城と前後して開城した。
その後、徳川家康の家臣内藤信成が城主となり、慶長6年(1601)信成の駿府転封とともに廃城となった。
韮山城は通称「龍城山」に所在し、本丸・二の丸などの曲輪や、土塁、堀などが良好な状態で残存している。
平時の居館などがあったと思われる平地部分には「御座敷」の字名が残る(現県立韮山高校校地)。
また、周辺には本城を囲むように「土手和田砦」、「和田島砦」、「天ヶ岳砦」、「江川砦」があり、現在でも曲輪や土塁などの遺構が確認できる。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
城池

堀切3


韮山城跡入口

三の丸

県立韮山高校


権現曲輪

熊野神社
当社は、後北条の初代伊勢宗瑞(伊勢新九郎盛時 通称北条早雲)が明応2年堀越御所の内紛時に伊豆に進出し、ほどなく伊豆一円を平定し、この地に韮山城を築いた。明応9年韮山城の守護神として伊邪那美命を祀り熊野神社を創建した。

拝殿
その後、天正18年(1590)秀吉の天下統一の戦いで北条氏滅亡後、江川家に於いて社屋を修復して同地区の土手和田村松並の鎮守の神として祭りつがれ、現在、土手和田区松並地区に於いて維持管理をしている。
※現地由緒書き看板より

高校生デザインオリジナル絵馬
販売場所
●蔵屋鳴沢特別展示場
●蛭ヶ島茶屋



二の丸











本丸
本城は龍城山とも呼ばれる細い尾根上にあります。尾根の長さは約400m、幅は約100mです。北から「三ノ丸」・「権現曲輪」・「二ノ丸」・「本丸」の4つの曲輪が直線的に並び、本丸の南にも小さな曲輪があります。現在地が本城の最高地点で、標高は約53mです。本城のまわりの低地部分には、幾重にも堀が廻っていました。

現在県立韮山高校のある一帯には、「御座敷」・「大手」などの小字名が残っており、城主などが住んでいた場所であったと考えられます。また、韮山中学校と城池付近は、当時も湿地が広がっていました。まわりには家臣や職人の住む屋敷が集中していたようです。
※現地韮山城跡周辺案内図より

韮山城跡の立地と構成
韮山城は中心となる本城と、天ヶ岳に配置された「外郭の遺構群」によって構成されています。さらに、周囲には豊臣秀吉軍の「付城」があります。
※現地韮山城跡周辺案内図より







堀切4

堀切5

城池親水公園

外郭の遺構群(砦)
天ヶ岳は、南北約1100m・東西約700mの山体で、山頂部の高さは128mです。山頂部に天ヶ岳遺構群、北東と西の尾根末端部に江川遺構群・土手和田遺構群があります。各遺構群と山体の間には、独立性と防御性を保つための深い堀切を見ることができます。
※現地韮山城跡周辺案内図より

2024/1最終訪問
城郭周辺地図
静岡県伊豆の国市韮山韮山
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