城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | イシガキヤマジョウ |
別称 | 石垣山一夜城、太閤一夜城、御座所の城、関白様御城 |
スタンプ設置場所 | 石垣山一夜城駐車場内トイレ前 |
曲輪配置 | 梯郭式 |
城郭種類 | 山城 |
築城者 | 豊臣秀吉 |
築城年 | 1590年 |
廃城年 | 1590年 |
主な城主 | 豊臣氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 261.2 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | なし |
遺構 | 石垣、土塁、空堀 |
現状 | 史跡石垣山城跡 |
駐車場 | 一夜城駐車場 |
最寄り駅 | JR 早川駅 |

概要・現地案内板
石垣山城は、天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原北条氏の本城である小田原城を水陸16万の大群を率いて包囲し、その本陣として築城されました。
完成と同時に周囲の樹木を伐採し、あたかも一夜のうちに築城したと伝わり、「一夜城」とも呼ばれています。
しかし、実際には、4月6日から築城に着手し、本陣を移した6月26日まで約80日間、昼夜問わずに工事が行われました。
また、塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけたとも伝わっています。
秀吉は、この城に天皇の勅使を迎え、また淀君や千利休を呼んで茶会を開き、参陣の諸大名をなぐさめたりしました。
東国で最初に造られた総石垣の城で、白亜の櫓・塀を備えた近世城郭と呼べるものです。
石垣は、自然石をそのまま使う「野面積み」で、近江の穴太衆による当時の最先端の技術によって築かれました。
大正12年の関東大震災で天守台などは崩落しましたが、南曲輪や井戸曲輪は崩落を免れ、当時の面影がよく残されています。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
駐車場

スタンプ設置場所
続日本100名城スタンプ設置場所

東口

城への登城口は、東口と北口の2か所あり、東口が大手と考えられます。本城曲輪(本丸)を中心に馬屋曲輪(二の丸)、西曲輪、東口の両側に南曲輪と東曲輪が配置されます。本城曲輪の西端に天守台があり、馬屋曲輪の北側には井戸曲輪、さらに北側には北曲輪(三の丸)、西曲輪の西側には大堀切があり、出曲輪が配置されています。こうした城の縄張は、肥前名護屋城に似ており、黒田官兵衛の関与が想定されます。
※現地看板より

馬屋曲輪石垣
石垣山の石垣は、古式の野面積みと呼ばれる技法で積まれています。馬屋曲輪の石垣は、比較的良好に築城当時の姿を保ち、延長67m、高さ最大約6m、勾配約60度となっています。規格のない自然石を適切に組み合わせることで、強固な石垣を築いており、構築した技能者の高度な技術が窺えます。
※現地看板より


二の丸跡
石垣山は、もと笠懸山、松山などと呼ばれていましたが、天正18(1590)年豊臣秀吉が小田原北条氏の本拠小田原城を水陸合わせて約22万の大軍を率いて包囲した小田原合戦のとき、その本営として総石垣の城を築いて石垣山と呼ばれるようになりました。この城を一夜にして築いたように見せかけたという伝承から石垣山一夜城ともいわれています。

ここ二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分、北へ長方形に出張した部分及び東の腰曲輪部分、これらの三つの部分からなっています。「新編相模国風土記稿」では二の丸として紹介されているが伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っており、他の曲輪にも「櫓台跡」が確認されています。

小田原合戦の当初に豊臣秀吉の本営の置かれた箱根湯本の早雲寺には、一夜城で使用した神奈川県指定重要文化財の「梵鐘」が残っており、どこかの櫓で使用されたと思われますが、現時点では、詳細は不明です。
※現地看板より

本丸の石垣
この辺りの石垣は10mを越える高さで築かれており、「穴太衆」の技術の高さがうかがえます。小田原城から見える面のため小田原北条氏を驚かせた石垣の一つでしょう。
※現地看板より


北門跡


本丸跡

小田原城を包囲する戦国の英雄たち
豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。徳川家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、前田利家・上杉景勝率いる北国勢が上野国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。長曾我部元親・九鬼嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。総構により中世最大の規模を誇った小田原城には、約6万とも伝わる人々が籠り、

豊臣秀吉・徳川家康をはじめ、織田信雄・蒲生氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多秀家・池田輝政・堀秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3か月余りに及ぶ攻防戦を展開する。
※現地看板より

小田原城


天守台跡

一夜城伝説
「北条記」には、秀吉が一夜にして城を築いたことに「関白は天狗か神か、かやうに一夜の中に見事なる屋形出来るぞや」と、一夜城伝説の一端を伝えていますが、石垣山城を築城するには山を削り、周囲の木を伐採して、大量の石垣石を掘り出す必要があります。夜間はかがり火を焚いて、大勢での作業の様子は、小田原城からも遂一確認されていたものと考えられます。

むしろ、短期間に築城したことこそが、伝説として語り継がれているものと考えられます。
※現地看板より



南曲輪跡


西曲輪跡





展望台



井戸曲輪跡
井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあり、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られている場所です。井戸は二の丸から25メートルも下がったところにあり、今でも湧き出る水を見ることができます。この井戸は「淀君化粧井戸」または「さざゑの井戸」とも呼ばれています。

石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭です。石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積みで、築城に際して西国から穴太衆と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されています。井戸曲輪の石垣は、石垣山一夜城の中でも特に当時の姿をよく留めている部分で、その石垣の特徴を知る上で貴重な遺構といえましょう。
※現地看板より

井戸曲輪は、谷地形を利用して造られた曲輪です。南側・西側には石垣、北側・東側には石塁が造られています。この石塁によって谷を遮蔽し、湧水を貯水する構造になっています。湧水部は、馬屋曲輪(二の丸)東側からスロープと階段で降りるようになっていました。そのため、らせん状に降りる構造から「さざゑの井戸」とも呼ばれています。石塁は約10m以上の高さがあり、下幅で11~18m、上幅で5~8m程度の規模を有します。

このような石塁は石垣山城では井戸曲輪のみですが、穴太衆による野面積みの様子がよくわかります。
※現地看板より

北口の城道

櫓台跡






移設された石垣用石材
国指定史跡石垣山(石垣山一夜城)の西側斜面の一帯には、17世紀前半の江戸時代初期に江戸城修築のための石垣用石材を調達した「石丁場」(石を切り出した作業場)があり、早川石丁場群関白沢支群の遺跡名が付されています。平成17~18年(2005~06)に小田原市早川の広域農道小田原湯河原線(市道2390)建設に伴って発掘調査が実施され、石を割って石垣用石材に加工する作業が行われていた跡が多数確認されました。

ここに置かれている石垣用石材は、この時の発掘調査によって発見されたものです。これらの石垣用石材には、石を割るために彫られた「矢穴」が一列に並んでいます。また、石材の面のひとつには「㊉」の刻印が刻まれていますが、これは石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられています。これらの石垣用石材は、事業者である神奈川県及びこの場所の土地所有者のご理解とご協力によって移設されたものです。
※現地看板より

2025/1最終訪問
城郭周辺地図
神奈川県小田原市早川
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