城郭DATA -CASTLE DATA-
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | オダワラジョウ |
別称 | 小峯城、小峰城、小早川城、小早川館 |
スタンプ設置場所 | 小田原城天守1F 09:00-17:00 |
曲輪配置 | 梯郭式 |
城郭種類 | 平山城 |
築城者 | 大森頼春 |
築城年 | 15世紀 |
廃城年 | 1871年 |
主な城主 | 後北条氏、大久保氏、阿部氏、稲葉氏、大久保氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 35.1 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | なし |
復元建造物 | 天守、隅櫓、常盤木門、馬出門 |
遺構 | 石垣、土塁、水堀、空堀 |
現状 | 史跡小田原城跡 |
駐車場 | 近隣の有料駐車場 |
最寄り駅 | JR 小田原駅 |

概要・現地案内板
小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。
16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。
豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。
北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。
しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。
その後、寛永9年(1632)再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。
明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。
城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。
現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。
また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。
※現地案内板より
城犬のおいど 攻城記録

弁財天曲輪跡
江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところです。二の丸の北側には弁財天曲輪という曲輪があり、蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていました。戦国時代には、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主の頃、上杉謙信や武田信玄がこの蓮池付近から小田原城を攻めたといわれています。

ここは小田原城の要衝の一つであり、発掘調査でも入口を固める戦国時代の堀がいくつも見つかっています。堀からは合戦の様子を伝える弓や鉄砲玉も出土しています。
※現地説明板より

本丸東堀跡
江戸時代の小田原城本丸の周囲は、堀に囲まれていました。本丸の東側を画する堀を本丸東堀と呼んでいます。本丸東堀は、発掘調査の結果、幅20m以上の規模をもつ水堀で、現在よりも5m以上深さがあったと想定されています。現在は、堀の形を平面表示しています。文久図には、この場所に本丸と二の丸をつなぐ木製の橋が描かれており、「常磐木橋」と名付けられていたことが分かります。

常磐木橋
これから先の本丸に出入りするには、この常磐木橋を渡り常磐木門から入るルートと、北側に位置する相生橋を渡り、鉄門から入るルートがあり、この常磐木門から入るルートが正面口になります。常磐木橋は、関東大震災で土台の石垣ごと崩れて失われており、現在の橋は、2m以上低い位置に再現されたものです。

常磐木橋は、明治3年に撮影された写真が残されており、当時の様子を知ることができます。
※現地説明板より

常磐木門
常磐木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分かっています。元禄16年(1703年)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870年)の小田原城廃城の際に解体撤去されました。

常磐木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常磐木門と名付けられたといわれています。江戸時代には、常磐木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もそのうちの一本が本丸の「巨松」として残っています。現在の常磐木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971年)に再建しました。
※現地看板より

本丸跡
小田原城の本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模があり、その西端に天守台、中央には本丸御殿がありました。本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされ、東と北の2箇所に門が設けられていました。東側の門は、本丸正門にあたる常磐木門、北側は裏門で鉄門と呼ばれていました。

本丸御殿は、他のお城では藩主居館として用いられます。しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で倒壊したため、翌年に上洛する三代将軍家光の宿所として再建されました。その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄16年(1703)の地震により倒壊・焼失してからは、再建されることはありませんでした。

現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。元禄年間(1688~1704)の小田原城の姿を描いた「寛永年間小田原城廓総図(通称「宮内庁図」)には、「七本松」と呼ばれた松の姿が描かれていますが、巨松は「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を越えています。
※現地看板より

天守入口



摩利支天と天守七尊

天守型厨子

八幡山古郭

石垣山一夜城

スタンプ設置場所
日本100名城スタンプ設置場所

二の丸跡

伝 銅門礎石
この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。使用状況は、復元した銅門をご覧いただくと解りますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そしてホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。

箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。手前の石は約1.6t、奥の石は約1.8tもある立派なものです。
※現地看板より

銅門
江戸時代の二の丸正面門に位置づけられる門です。この門を通り本丸や天守へと進むようになっていました。枡形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成されます。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれています。

地震などによる被害を度々受けながらもその都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていましたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体されました。現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法により復元しました。銅門の梁にはマツ、柱と扉にはヒノキが使われています。
※現地看板より

棟札





馬屋跡

雁木
土塁の上に登るための階段で、鳥の雁が並んで飛んでいる様子が階段の形に似ているため、「雁木」と呼ばれています。箱根山の溶結凝灰岩(風祭石)で造られており、他にはあまり例がない斜めに階段が設置されていたというところが特徴的です。
※現地看板より

切石敷井戸跡
安山岩の円櫟を積み上げ、上面に箱根山の溶結凝灰岩(風祭石)の切石を敷き詰めた井戸です。外側は円形、内側は六角形に形作っており、六角形に形作っており、六角形の井戸は特別な井戸であったと考えられています。徳川将軍家用の馬屋で用いるための井戸であったと考えられます。
※現地説明板より

馬屋曲輪 二重櫓

大腰掛跡

馬出門
馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文12年(1672)に桝形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。明治時代には御用邸の正門でしたが、関東大地震で倒壊しました。平成21年(2009)に発掘調査を経て、江戸時代の姿に復元整備されました。
※現地看板より




学橋

二の丸隅櫓

二の丸東堀

2024/12最終訪問
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