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上総国 勝浦城 [ KATSUURA CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナカツウラジョウ
別称なし
スタンプ設置場所
曲輪配置
城郭種類水城(平山城)
築城者真里谷信興
築城年1521年
廃城年1590年
主な城主真里谷氏、正木氏
指定史跡市指定
標高36.9 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構土塁、空堀
現状八幡岬公園
駐車場八幡岬公園駐車場
最寄り駅JR 勝浦駅


概要・現地案内板

勝浦城は、天文11年(1541)の頃、勝浦正木氏の初代、正木時忠が入城。
それ以前は、真里谷武田氏の砦のようなものであったろうと言われています。
その後、二代時道、三代頼忠の居城となります。
しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉により安房里見氏が領地の一部を没収されると、里見氏と親交のあった勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、安房に逃れます。
なお、頼忠の娘は、後に徳川家康の側室(お万の方)となり、紀州徳川頼宣と水戸徳川頼房をもうけます。
高名な水戸光圀(黄門)は、お万の方の孫にあたります。
また、絶壁を布を伝わって下りたという「お万布ざらし」伝説は、神社裏の断崖絶壁が舞台です。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


追手口


三の郭(三の丸)


八幡岬公園


二の郭(二の丸)


旧・遠見岬神社海の鳥居


看板


一の郭(本丸)


物見台


養珠院於萬の方


天正5年(1577年)4月4日、上総国勝浦城主正木左近大夫頼忠の娘として勝浦城(現在勝浦市勝浦八幡)に生まれる。本名を萬といった。同18年(1590年)6月、豊臣秀吉の小田原城攻略に関連し勝浦城は落城、当時14歳の於萬は海路伊豆韮山へ遁れた。

炎上する城を後に幼い弟を背おい母と40メートルもある八幡岬の断崖に白布を垂らして海に下り小舟に乗って逃れたという話は「お万の布さらし」として今尚言い伝えられている。その後、母が伊豆の土豪蔭山氏と再婚をした機会に、徳川家康に沼津本陣で見染められた於萬は、江戸城に召されて家康の側室となった。文禄2年(1593年)10月22日、17歳の時だったという。江戸城では於萬の方、蔭山殿と呼ばれた。

慶長7年(1602年)3月、京都伏見で長福丸ー後の紀伊徳川家の祖頼宣ーを生み、さらに翌8年には、駿河で徳千代ー後の水戸徳川家の祖頼房ーを生んだ。紀伊家、水戸家は共に徳川御三家として名高く、又水戸黄門の逸話で知られる水戸光圀は頼房の子であり於萬の方の孫にあたる。元和2年(1616年)家康が死去した時40歳の於萬は仏門の人となった。法華経に帰依した於萬は諸寺を建立したが八日市場市の飯高檀林堂もその一つである。

生涯は仁慈貞潔のことば通りで、家康によく仕え、子弟の教育に尽し、信仰の心篤く、病める者には医薬を恵み、貧しい者には依財を与え、刑罰にあう者には命乞いを行うなど数々の優れた業績を残したが、晩年は落飾して蓮華院と号し承応7年(1653年)8月22日、享年77歳の生涯をとじた。
※現地石碑より

お万の布さらし


お万様(養珠夫人)は徳川御三家の紀州(頼宣)と水戸(頼房)二祖の母で、天正5年(1577)勝浦城主、正木左近大夫頼忠の姫君として勝浦城内で生まれました。しかし天正18年、豊臣秀吉に攻略され北条氏が滅亡すると、勝浦城も本多忠勝や植村泰忠らの軍勢に攻められて落城しました。

14歳の姫君お万様は、炎上する城を後に母と幼い弟を連れて、八幡岬の東側40mの断崖に布を垂らして海に下り、小舟で館山方面へ逃れたということです。ここを「お万の布さらし」と呼び、後世に伝えられています。その後、お万様は徳川家康に見初められ、17歳の若さで江戸城に入り「陰山殿」と呼ばれて寵愛されました。
※現地看板より

城址碑


城址碑(裏)


養珠夫人は名を萬といい、天正5年(1577)勝浦城主正木頼忠の息女としてこの地に生まれた。同18年落城の悲運に遭い海路伊豆に逃れたという。のち徳川家康の室となり頼宣頼房の二子を生んだ。水戸光圀は夫人の孫に當たる。法華経に帰依して信仰の心篤く、数々のすぐれた業績を残し、承應2年(1623)77歳で没した。養珠院は頼宣によるおくり名である。
※現地城址碑より

八幡神社鳥居


三の郭(三の丸)


八幡神社


三の郭へ


2025/1最終訪問


城郭周辺地図

千葉県勝浦市浜勝浦


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