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相模国 津久井城 [ TSUKUI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナツクイジョウ
別称筑井城
スタンプ設置場所
曲輪配置連郭式
城郭種類山城
築城者筑井氏
築城年鎌倉時代
廃城年1590年
主な城主筑井氏、北条氏
標高373.9 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物なし
復元建造物なし
遺構石垣、土塁、空堀
現状津久井湖城山公園
駐車場根小屋駐車場
最寄り駅JR東日本横浜線 橋本駅


城犬のおいど 攻城記録


津久井城の築城は、鎌倉時代三浦半島一帯に勢力を誇っていた三浦氏の一族、津久井氏によると伝えられます。

戦国時代、小田原城を本城とした北条氏は16世紀中ごろまでには、相模・武蔵を領国とする戦国大名に発展しました。

そしてこの広大な領国を経営し、敵勢力から守るため本城の下に支城を設け、支城領を単位としする支配体制を作りました。

当時の津久井地域は甲斐国境に近く、領国経営上重視されており、津久井城(城主内藤氏)は有力支城のひとつとして重要な役割を果たしていました。

現在残っている遺構は16世紀に北条氏が整備したものです。

※現地看板より


駐車場


パークセンター


陣屋跡


この研修棟がある場所には、江戸時代初頭に陣屋が建てられていました。「陣屋」とは地域の政治の中心になった場所で、今で言えば市役所と警察と裁判所をあわせたようなものです。発掘調査の成果からは、大きな礎石建物を含め、周辺一帯に江戸時代初頭の施設があったことがわかっています。この大きな建物にはタタミ18畳分の部屋(九間)がありました。そのような大きな建物は当時めずらしく、また瓦や、ヨロイの部品などの特別な遺物が発見されています。
※現地看板より

牢屋の沢


ここは「ろうやさわ」といわれています。牢屋の沢とは、…そう、牢屋があったといわれる沢です。牢屋は、江戸時代初頭に陣屋に代官がいたときに使われたとされます。代官が裁いた罪人が牢屋に入れられたのでしょう。ここから少し上流の沢が二股にわかれた場所にあったようです。牢屋は「水牢」だったといわれ、水で罪人を苦しめたものと思われます。

この沢は、戦国時代には地形を削って「堀」として使っていたのだと考えられています。
※現地看板より

根小屋


根小屋は、根本・城坂、小網、荒久、馬込地区一帯に広がっていたと推定され、各地区で大小の曲輪が確認できます。特に城坂地区にはお屋敷跡、馬場、左近馬屋などの地名が残されており、津久井城の根小屋の中心と考えられています。また、お屋敷跡の発掘調査では、建物跡や焔硝蔵跡、深さ3mにも及ぶ空堀、土塁跡などが見つかっており、城主館跡と考えられます。

御屋敷跡


戦国時代、津久井城主内藤氏が館を構えていたとされる場所です。発掘調査では、深さ2.5mの堀や半地下式の蔵、中国製磁器や天目茶碗をはじめ、さまざまな遺構や遺物が発見されています。(現在は保存して埋められています)※現地看板より

御屋敷跡


城主の内藤氏の居館があった。

馬場


大手道(馬道)


太鼓曲輪


堀切と引橋


堀切は尾根伝いに攻めてくる敵を防ぐため、尾根を逆台形に大きく掘り込んだものです。平時は木橋がかけられていますが、いざ戦となると橋を引いたり落としたりして敵を防ぎました。津久井城では山頂の尾根に三箇所の堀切があります。

引橋について


山城では木橋や土橋が使われます。この場所には引橋の地名が伝えられており、また古絵図にも橋が描かれていることから、堀切を渡る木橋が架けられていたものと思われます。木橋の構造はよくわかりませんが、はしごを横にねかせたような簡易なもの、コロや車輪を使い移動することができる引橋、もちろん現在の橋のように固定されたものもあったようです。

ただ、その多くは非常時には簡単に取壊したり、移動することができるものでした。
※現地看板より

土蔵


門跡


案内看板


救急箱が置かれています。城山を歩いて一句。どこでも俳句という俳句を書く紙と鉛筆が置いてあります。詠まれた句はパークセンター前に掲示されるようです。

米曲輪


本曲輪


本城曲輪は津久井城の中心です。周囲の尾根には何段もの曲輪や長大な竪堀が掘られるなど、とても堅固な作りになっています。土手状に残った部分が土塁です。これは土を突き固め盛り上げた防御壁で、敵を攻撃する台としても使われました。
※現地看板より

築井古城記碑


津久井城の家臣の子孫が江戸時代に建てたとされる石碑。

米蔵


家老屋敷跡


飯綱曲輪


飯綱神社


烽火台


この付近は烽火台とも鐘撞堂とも伝えられます。戦国時代、城や砦の間の情報伝達には、天気の良い時には、烽火(狼煙とも書く)や旗、吹流しなど、また夜間や雨の日には鐘や法螺貝などの「音」が使われました。津久井城周辺には、敵に備え多くの砦や烽火台が築かれていました。

烽火台と鐘撞堂


江戸時代の中期に大阪の医師寺島良安により編集された百科事典「和漢三才図会」を参考にして復元された井桜矢倉式の烽火台です。跳ねつるべの先に火種をとりつけて空中に上げる様式のものです。

烽火はオオカミの糞を火種にしたことから狼煙とも書きますが、オオカミの糞は、真直ぐにあがり風にも強いと伝えられます。また煙草や青松葉、火薬、松なども使われていたようです。
※現地看板より

宝ヶ池


いざ戦となって山城にたてこもっても、水がなくては戦いどころではありません。宝ヶ池は、津久井城の水の手(溜井)のひとつです。江戸時代の地誌「新編相模風土記稿」は、「日照りや雨が続いた年でも、いつも安定して水をたたえている」と記しています。

水が白く濁っていることから城兵が刀を研いだとも伝えられます。また水が枯れないところから雨乞いの行事にも使われました。
※現地看板より

山城と水


中世にまとめられた城作りの手引書「築城記」は、山城を築くときの心得として、まず「水があることが大切、また水の手(井戸など)は遠くにつくってはならない」と記しています。水は戦はもとより、日常の城中生活に欠くことのできないものだからです。また「水が枯れるので、やたらに尾根を掘ったり、大木を伐ってはいけない」ともあります。

水の保護には常に気を配っていたことがわかります。津久井城では宝ヶ池のほか、本城曲輪の北側と御屋敷跡で井戸跡がみつかっています。また山麓にはいたるところに水源があり、今でも豊かな水が湧き出しています。津久井城は水で苦労することはなかったことでしょう。
※現地看板より

大杉跡


樹齢900年を誇った大杉ですが、平成25年の落雷により焼失。

津久井城は、奥三保の領主だった内藤氏が津久井氏の古城を改修し、
甲斐武田氏の侵攻に備えた後北条氏の城であったとされています。
1590年(天正18年)の豊臣軍の侵攻により本多忠勝、
平岩親吉らの攻撃により開城すると、
 徳川軍に接収されたのちに廃城となりました。

2024/6最終訪問


城郭周辺地図

神奈川県相模原市緑区太井


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