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大和国 高取城 [ TAKATORI CASTLE ]

城郭DATA -CASTLE DATA-

項目内容
ヨミカナタカトリジョウ
別称芙蓉城、鷹取城、高取山城
スタンプ設置場所高取町観光案内所 夢創舘
曲輪配置連郭式
城郭種類山城
築城者越智邦澄
築城年1332年
廃城年1873年
主な城主越智氏、筒井氏、本多氏、植村氏
指定史跡国指定
標高583.1 m
城址碑あり
案内板あり
現存建造物植村家長屋門、田塩家長屋門
復元建造物なし
遺構石垣、土塁、水堀、空堀、井戸
現状史跡高取城跡
駐車場壺阪口 駐車場
最寄り駅近畿日本鉄道 壺阪山駅


概要・現地案内板

高取城跡は、奈良盆地の南端、標高584mの高取山の山頂を中心に、急峻な山上の地形を巧みに利用して築かれている。
何段にも重ねた石垣や喰違い虎口(出入口)、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は400m以上を測る。
14世紀前半に土豪越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりといわれている。
織田信長の一国破城により、天正8年(1580年)に一旦は廃城となるが、天正12年(1584年)の筒井順慶による復興をへて、豊臣秀長の家臣本田氏により天正から慶長の頃(16世紀末~17世紀初頭)に近世城郭として完成した。
その後江戸時代に入り、寛永14年(1640年)に譜代の植村氏が入部して2万5千石の居城とした。
以後明治維新まで、植村氏が14代に渡って城主となった。
山上に本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町の二様相を山城としてまとめた特徴ある形であった。
そのため山城としては広大にならざるを得なかった。
しかし、平穏な時代には山上の生活が不便なため、藩主をはじめ多くの家臣が山を降り、その結果、城郭と城下町が離れた特異な形態となっている。
二の門・壺坂口門・吉野口門の内側は「城内」とよばれ、山中のすべての曲輪を含んだ範囲が「郭内」とよばれている。
現在は、郭内に建造物は残っていないが、広大な縄張りと堅牢な石垣群が残されており、国史跡に指定されている。

※現地看板より


城犬のおいど 攻城記録


壺坂口登城ルート入口


壺阪口門跡


大手道登城案内図


この場所には、高取城の「大手門」がありました。大手門は「御城門」とも呼ばれ、城内への入り口である「二の門」「壺坂口門」「吉野口門」から城内に進むと、この「大手門」の前でひとつになります。この大手門が二の丸、本丸への唯一の入口です。本丸はまさに高取城の中心であり、高取山の最高所(標高583.61m)にあります。

二の丸は高取城で一番広く日当たりのよい平場があり、藩主の屋敷や政庁がありました。本丸と二の丸からは気象条件により葛城・金剛山の山並みから広大な吉野地域を望むことができます。本丸まであと少し、がんばってください。
※現地看板より

城代屋敷跡


千早門跡


大手門跡


十三間多門跡


二ノ丸


十五間多門跡


太鼓櫓跡・新櫓跡


新櫓跡


日本三大山城説明板


この三つの城は、財団法人日本城郭協会が歴史遺産として日本百名城に認定されており、日本三大山城サミットを開催し交流を深め保存と活用に努めている。
※現地看板より

城址碑


天守台の石垣


城内最大の高さ(約12m)の天守台石垣。かつては三層の天守が建っていました。

本丸虎口


本丸


井戸跡


天守台


天守台穴蔵入口の転用石


高取城の石材には古墳の石棺が使用されています。

七つ井戸


斜面には七つの井戸があり、連なるように石垣が築かれています。

2025/1最終訪問


城郭周辺地図

奈良県高取町大字高取

駐車場のGoogleMAP


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