城郭DATA -CASTLE DATA- 
項目 | 内容 |
---|---|
ヨミカナ | コオリヤマジョウ |
別称 | 大和郡山城、雁陣之城 |
スタンプ設置場所 | 柳沢文庫 09:00-17:00(月曜定休) |
曲輪配置 | 輪郭式 |
城郭種類 | 平山城 |
築城者 | 筒井順慶 |
築城年 | 1580年 |
廃城年 | 1873年 |
主な城主 | 筒井氏、豊臣氏、水野氏、柳沢氏 |
指定史跡 | 国指定 |
標高 | 80.5 m |
城址碑 | あり |
案内板 | あり |
現存建造物 | 南御門(永慶寺山門) |
復元建造物 | 大手向櫓、東櫓、大手門 |
遺構 | 石垣、土塁、水堀、空堀 |
現状 | 史跡郡山城跡 |
駐車場 | 郡山城 駐車場 |
最寄り駅 | 近畿日本鉄道 近鉄郡山駅 |

概要・現地案内板
天正8年(1580年)、筒井順慶が入城、大和国唯一の城郭として築城を開始する。
同13(1585)年に入部した豊臣秀長によって本格的に整備された。
文禄4(1595)年に入部した増田長盛による外堀普請で完成した城郭の形状は現在までその姿を良好に保っている。
関ヶ原の戦い後一時在番支配となるが、大坂・京都に近い要衝として幕府に重要視されて元和元(1615)年に復興。
水野、松平、本多といった譜代大名が相次いで城主を努める。
享保9(1724)年、甲斐国甲府より柳澤吉里が入部する。
以降幕末まで安定した治世が続き、江戸時代を通じて大和国の政治、経済、文化の中心地として繁栄した。
※現地看板より
城犬のおいど 攻城記録
桜門跡


五軒屋敷堀

鉄御門跡

追手門

梅林門




常磐曲輪


天守台の石垣
正面に見える本丸東面の石垣の最下部に四角い石材がいくつも並んでいる状況がみてとれる。南北幅20m、高さ2mの範囲に約60石が集中して積まれている。すべて墓石、地蔵などの転用石材である。郡山城の石垣には転用石材が数多く使われているのが特徴であるが、ここは城内で最も集中する場所であり、また、全国的にみてもこれほど集中的に積まれている事例はない。

初期の城づくりのすさまじさがうかがわれる。その右側から隅角部にいたる石積みは大きな自然石を使う野面積みであり、荒々しい印象を受ける。その上部には少し小ぶりの自然石が積まれる。隅角部は石材の長い面が交互に現れるように積む。算木積みという技法であるが、まだ完成型にはいたらない初期の算木積みの様相を持っている。上部にいくほど石材は小さくなる。左側の月見櫓下の隅角部は四角い割石を用い、隅脇石を配する完成された算木積みを呈する。

本丸石垣ではもっとも新しく精美な石垣である。さらに天守台石垣の隅角部は、この本丸北東角部と月見櫓下の石垣の中間的な様相をもっている。このように本丸と天守台の石垣には築造された時期が違うものがあることかがわかる。幾度かの改修、整備を経て石垣全体が完成しているのである。
※現地看板より


追手向櫓
追手門(梅林門)を守るための櫓で、本多氏時代(1639~1723年)は大手先艮角櫓と呼ばれていました。追手向櫓と呼ばれるようになったのは、柳沢氏入城後(1724年)のことです。櫓は明治6年に取りはらわれましたが、記録によると、下重(一階)は4間2尺に5間、上重(二階)は2間四方の二重櫓であったと伝えられています。
※現地看板より

毘沙門曲輪

極楽橋




白沢門跡


竹林門跡

城址碑

柳澤神社



御厩向櫓跡

さかさ地蔵
郡山城天守台の北面石垣の築石として積まれた地蔵で、頭部を奥にうつむきに積み込まれているためにさかさ地蔵の名で呼ばれています。仏身は約90センチで、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、大永3年(1523)癸末7月18日の刻銘があります。いつのころからか信仰を集め、供養のために五輪塔や石灯籠が立てられ、路傍の石仏も数多く集められています。

郡山城の石垣にはさまざまな転用石材が使用されています。寺院の礎石、石塔、石仏、日常生活に使う石臼などで、石垣の表面だけでも750基あまりが確認されています。石垣の裏込め石など目に見えない部分にも多数の転用石材が使われていると考えられます。郡山城は筒井順慶の縄張りに始まり、豊臣秀長の時代に大規模に築城を急いだので転用石材を多数使用したものですが、当時信仰の対象となっていたものさえ容赦なく使うところに城づくりのすさまじさがうかがえます。
※現地看板より


付櫓台


天守台
郡山城の天守については、絵図や文献がほとんど残っていないため、実在していたかも含めて諸説粉々となっていました。平成26年の発掘調査で礎石を発見。「幻の天守」は、ようやくその実在が確認されたのです。

礎石
礎石には1m前後の自然石を用います。礎石が取り外された部分には礎石を支えた根石がみられ、石があった位置がわかります。礎石は列状に並べられていますが、その上には土台となる木材が横方向に置かれ、その上に柱が立てられたのです。礎石や根石の中には、石仏や石塔を転用したものもみられます。

礎石を覆う土からは、豊臣大坂城金箔瓦と同じ笵(文様の型)を用いた軒丸瓦や聚楽第に類例のある文様の軒平瓦などが出土しました。これらの瓦から、天守礎石の年代は豊臣政権期と考えられます。この天守は関ヶ原の戦い後に解体。以後、郡山城では天守は再建されなかったようです。
※現地看板より



大和郡山城絵図

裏門跡

中仕切門跡

松蔭門跡

南御門跡

麒麟曲輪

きりん郭跡碑

西門跡

五拾間馬場跡


厩跡
本丸から内堀を介した西側には南北に長い曲輪が設けられ、中央で南北に区切って、北半を厩、南半を緑曲輪としています。厩は、馬の管理や調教に関わる施設を設置した曲輪で、南東部に設けた門から出入りしていました。

城絵図から長大な建物が連なるように配置されていたことがわかり、「西厩」、「東厩」、「スソ場」、「着置所」、「鞍部屋」、「釜屋」、「飼料役人居所」などの呼称が見られます。「西厩」は長さが四十三間半(約78m)ある厩舎で、最も長大な施設です。曲輪の東辺と内堀の間の広い通路も、馬場として機能するものでした(五十間馬場)。江戸時代において、馬は戦の有無にかかわらず、非常に重視されていました。城の中心部への大規模な馬関連施設の設置は、まさに馬の重要性を反映しているのでしょう。
※現地説明板より

馬場先門跡

永慶寺山門
棟門形式の小形の門で、主柱に横木をわたし、その上に桟瓦を葺いた切妻屋根をのせ、右側に脇戸がつけられています。八双金物、乳金物がついた内開きの板扉を鉄製の脇壺で吊り、戸締まりは木製の閂をもちいます。きわめて素朴な意匠ですが、安土桃山時代の城門の建築様式を伝えています。

豊臣秀長の時代に郡山城の南御門として建築され、当時の郡山城の遺構として当市に残る唯一の建造物です。幕末に永慶寺山門として移築されたといわれています。
※現地看板より

2024/1最終訪問
城郭周辺地図
奈良県大和郡山市城内町
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